うでは、その論文は要するに何の役にも立っていないのであって、ただ、こうだああだ、と主張だけを書いた方がまだしも正直なことで、論文の体裁などはコケおどしの見せかけに過ぎなくなる。つまり既知の常識を常識として反覆するだけで、その常識を掘り起こすでもなく、糾明するでもなく、高めるでもない。こういう論文はアタマの悪い論文である。そしてアタマの悪い論文は、往々歓迎されるものであるのも忘れてならぬ事実だ。つまり読者の既知の世界に抵抗して行くだけの骨のない論文は、一種の人間的弱さから来る好意を以て迎えられる。――アタマの悪い論文に堕さぬためには、論文は作文でないことを注目してかかる必要があろう。勿論アタマのよい論文で、作文としても修辞的で愁訴力に富んでいたり扇動力を持っていたりすれば、それに越したことはない。
論文の生命は、あくまで分析を通しての総合という手口にあるのである。分析とは大体区別を明らかにすることだ。同じ言葉や意味の近かそうな言葉を区別して、夫々の通用範囲をハッキリさせ、それを使って事物を解明して行くことである。総合とは之に反して、連関と対立物の統一とを明らかにすることである。お互いに無関係に見えるもの、お互いに違っているものの間に、或る同一性に帰する関係を発見することである。そして、二つの相違し又無関係に見えた事物をこういう風に関係させるためには、二つのものの夫々について、さっき云った分析が予め必要なのである。充分に分析されないものは、決して満足に総合はされない。充分に分解されて初めて確実な組み立てが出来る。論文の主張[#「主張」に傍点]はこの時初めて成り立つ。云って見れば、之が論文の書き方の方式の唯一のものであるかも知れない。アタマの悪い論文とは、この方式を実行出来ない論文のことだ。それをゴマ化すために、作文などに努力をする。
処で、事物には凡て表と裏とがある。事物を処理するためには、表と裏との両面から這入って行かねばならぬ。之は論文の作文法の問題ではなくて、事物そのものの性質が文章に対して一般的に要求する処だ。反語や逆説やアフォリズムという作文様式は、この要求から使われるのであって、特に反語や逆説やアフォリズムを使って見たくなったから使う、というものであってはならぬ。又そういうことは、本当は不可能なのだ。こうしたものを何か便宜的なものと考えている人があるとす
前へ
次へ
全137ページ中124ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング