学の素養がなくてはならぬ。だけではなく、諸科学上の常識と、普通の常識とが絶対に必要である。例えば「トロツキー」は「トロッ[#「ッ」に傍点]キー」ではなくて「トロツ[#「ツ」に傍点]キー」だ。准[#「准」に傍点]南子は準[#「準」に傍点]南子ではない。其の他幾万の常識。
 校正係りは原稿がそのまま活字になったかどうかを校閲するのではなくて、印刷になったものが文章及び文字として正しいかどうかを検閲するものだ。技術だけではなく、文章の筆者以上の理解と、持ち合わせの大常識とが、絶対に必要である。
 処で、こういう偉い博学者で注意周到な人間は、なかなか校正などという賤しい仕事をやろうとしない。二流以下の出版屋では校正は小僧にさせる場合さえ多い。悲しむべき現象である。
『唯研』や『唯物論全書』にさえ、誤植が少なくないのは、こういう悲しむべき現象の、典型を実現して見せるためである。悪く思わないで読んで欲しい。
 併し原稿渡しがギリギリで、優秀な校正者も手のほどこしようがない場合は、又別に考えねばならぬ。多分之は原稿料や印税が安いからだろう。之亦悲しむべき現象と云わなくてはならない。云いたいことは段々あるが、いずれその内又。
[#改段]


 7 翻訳について


 武田武志氏は『唯物論研究』(一九三七年六月号)のブック・レヴューで、ゴーリキー『文学論』の翻訳三種を比較した序でに、三笠書房版熊沢復六氏訳に関説して云っている。「最後に、この機会にわが国の翻訳について一言したい。ナウカ社版や本間氏訳は大体わかり易い訳であるが、熊沢復六氏のは悪訳である、私は熊沢氏の訳本は大部分通読しているが、あまりにもひどすぎる(例えば『文芸評論』)。ソヴェート文献翻訳の仕事の意義は実に大きい。その任務の大きさにもっともっと自覚して責任ある[#「責任ある」に傍点]訳書をどしどし出版していただきたい。ナウカ社版は論文を随分勝手に省略してそれぞれの論文を切りさいなんでいるが、良心ある訳者ならばこれを読者に断わるべきである。吾が国のソヴェート文献翻訳事業に、もっと責任と良心とを要求したい。あえて苦言を呈する」と。
 之では熊沢氏はまるで、無責任と無良心の巨頭であるように見える。果してそう云っていいだろうか。なる程、私も熊沢氏の訳にはあまり感心はしていない。ロシア語の読めない私でもこれは何かの誤りでないかと思わ
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