養は今問題でない。本を読む人間の内で、読書子や「読書家」は決して信頼すべからざる文化人である。彼等は雑誌の投書階級のような特色を、一般文化の上でもっているようにも思われる。一種の謙遜な弥次馬でなければ、不遜な能無しである。
こういう読書子は決して「読者」の代表者ではあり得ない。真の読者は読書主義には陥らぬものだ。というのは本を読むと同時に、それだけの分量の時間を、自分自身で物を考えるのに使う義務をみずから課しているのが、本当の読者である。本を読んだかどうかを記憶する人ではなくて、本を読むことによって何を考えたか、を記憶する人が、本当の読者である。
ブック・レヴューが最近盛大であるが、これはこういう「読者」を代表するところの、批評家の大きな仕事の一つなのだ。文芸の出版物を批評することが所謂文芸批評だとすると、一般の出版物を批評するブック・レヴューはクリティシズム一般の仕事の筈である。ブック・レヴューは、本格的な文明批評の一環である。アナトール・フランスなども文芸上のブック・レヴューによって名をなした。古来批評家は書評家である。ということは、批評家は本当の「読者」の代表者だということである。これはアレキサンドリア派の文献主義者なる所謂読書子や「読書家」のよくする所ではあるまい。
[#改段]
3 論文集を読むべきこと
大抵の本屋は、書き下しの単行本を書け書けという。一遍雑誌其の他に載ったものはあまり売れないという。論文集や評論集にしても書き下しの論文が這入っていないと売れないと云っている。或る本屋は論文集ならば、仮とじにして簡単に中味のわからぬようにしておく必要があると主張する。蒸し返しの中味をなるべく暴露する機会を少なくしようという魂胆である。なる程之は尤ものことで当然至極な考え方のように見える。一遍読んだものを誰が繰返して読むものか、と考えられるだろう。処が私は、これに大反対なのである。尤も、大反対と云っても、そういう論文集や評論集が売れないということが嘘で、大変売れるものだと主張する心算ではない。多分売れにくいのは事実だろう。だが私はそういう事実が気に入らないのである。そんな事実に不平なのである。事実に不平を云ったって仕方がないと言われるかも知れないが、併し少し不平の声を大きくすれば少しは改まる事実だろうと思うので、云って見れば、読書術の水準がもう少
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