明らかに過ぎる対蹠をなしているから、事情の妙なことはすぐ気がつくけれども、文化に関する科学や文学などとなると、このアレキサンドリア振りは、人の気のつかない内に、思わぬ勢力を張るものである。私は或る冊子をのぞいて見て驚いたが、その本は「科学精神」とかいうものを批判するのに、日本の高貴な方の和歌や、偉くも何ともないようなヨーロッパのあれこれの学究の片言双語などをもって自分の論拠の助けとしているのである。スペンセル氏曰く、の類のモダーン版なのだ。
また私の曾て勤めていた或る大学の東洋哲学の教授先生は、議論が少し込み入って来ると、やたらに審美的な漢詩を引用して、自分の主張の論拠に代えようとするので、大いに困らされたことがある。こういう誰が見ても妙な滑稽な現象は、歯牙にかけるに値いしないが、しかし考えて見ると、今日の「学問」とか「教養」とか「学殖」とかというものの大半が、これと同じ本質であるといわねばならぬ。
世に愛書家なるものがある。また蔵書家なるものがいる。いずれも性のよいのと性の悪いのといるが、今は問わぬとしよう。これに因んで読書家というものがいる。大体において物知りで博学な人である。ところが読書家の大半が、恐らくこのアレキサンドリア派なのである。ただそのアレキサンドリアン振りが、比較的馬鹿げていないかいるかの差はある。しかし実は、本を読むことから少しも利口になるのではなくて、却って読めば読むほど、頭が悪くなるという点で、同じ本質のものなのだ。現に今の私自身、この間偶然ペリーの本などを読んだものだから、そんなものを引合いに出さなくてもよいのに、何か文章に色艶でもつけようというような潜在意識で、アレキサンドリア主義などという衒学的な言葉を使って見たくなったのである。私の思想、それはここでは、文献学というものが軌道を脱線すると文化にとってどんなに有害であるかということを指摘論証しようという思想だが、この私の思想は、こういう「読書」によって一見豊富になったとも考えられるが、同時に著しくレディー・メード化して貧弱になったとも思われるというようなわけだ。
本が如何に人間を馬鹿にするかということについては、昔から色々の人が述べているが、それは決して逆説ではなかったのである。いわゆる読書子には、案外特色のある思想家はいないというのが、事実ではないだろうか。本を読まない人間の無教
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