、大多数はヤニ下るものだ。例えば経済学の著書の序文に和歌などを入れたくなったり、擱筆の瞬間? の風物を抒したりしたくなる。それもいいだろうが、序文は著書の著者による自己解説であり、最も意味のあるブック・レヴューの一種だ。新聞学芸欄のブック・レヴューが著書の序文だけを材料として新刊紹介を企てるのも、ニュース・センスとしては正確なのである。
 さて普通に漠然と考えられている所謂「ブック・レヴュー」は、一面に於て著書に盛られた著者の思想の原則的な解説・批評・であると共に、他面に於て、出版物としての本に対する公正な読者による時事的な解説・批評・を建前とするものでもある(ブック・レヴューが新刊を選ぶ場合の多いのはこの点から当然である)。後者の意味では出版の体裁、ヴォリューム、定価に至るまで、批評されねばならぬ。処が実際には定価やページ数という商品としての本質をあまり重大視しないブック・レヴューが珍しくない。東京其の他でこそ、店頭で自由に新刊本を手に取って見ることが出来るが、地方読者はこういう風にジャーナリズムずれする機会がないから、地方読者はブック・レヴューを最もよく活用する人だ。読者が一人の経済人として本を買う時の参考になるように書くのが、商品出版物としての著書のブック・レヴューのやり方であるべきだ。――で多くの雑誌がブック・レヴューに、つけ足りのスペースしか割かぬのは考えの不行届きから来る誤りである。一定数以上の本をブック・レヴューするのが、特に評論月刊雑誌の使命の一つである。この際ブック・レヴューが一定数以下では、偶然性に支配されるので殆んど無意味に近い。外国の学術雑誌がブック・レヴューに絶大な意義を置いているのは羨望に堪えないものがある。
[#改段]


 2 読書家と読書


 イギリスの数学教育者であるペリーが書いた有名な『数学教育論』を読むと、アレキサンドリア的な数学教師というような言葉がよく使ってある。丁度古代文学を集大成したアレキサンドリアの学者のように、ペダンティックな教科書を用いて幾何や代数の教育をやることを、何か学者らしい態度だと考えている数学教師のことを指すらしい。
 私はこの言葉が大変気に入ったのである。勿論数学の世界だけではない。一切の科学また芸術の世界に、アレキサンドリア主義者がはびこっているのである。数学とアレキサンドリア式文学とは、あまりに
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