得べき国民の宗教意識を指す。一切の教科はここに発しなければいけない。修身・作法・国語・歴史・公民科・等々は云うまでもなく家事や理科に至るまで、専らこの宗教教育に帰着せねばならぬとする。
処で日本国民の宗教的情操は又、仏教・儒教・神道・と離れてはあり得なかったし、又あり得ないと考えられる。つまりこの三つの「教え」を単に道徳的内容と見ることが誤りで、之を宗教的な内容だと見ねばならぬとする。かくて日本国民の伝統たる例の宗教的情操は、神仏儒を一丸としたような内容を持つことによって、まさに「教学」となり「学問」となるものでなくてはならぬ。日本国民の「宗教的情操」とその東洋的な「教学」とが、どう結びついているのかは、実はあまり明らかにされていないと思うが、とに角之が日本文化の伝統であり従って又日本教育の伝統であるということは、正に大いに首肯すべきだろう。
だが問題はこの伝統がなぜ明治政府によって断絶せしめられたように見えたかである。夫は単に「誤った」教育政策などに帰することは出来まい。日本の資本主義と夫の基底に横たわる生産技術とを見逃しては、前資本主義的伝統の理解は途方に迷うだろう。著者はこの点についてあまり注目していない。単に、徒らなる排外主義は心ないものだ、大いに西欧的観点をも容れて日本教育の伝統を生かし、以て新日本教育を建設せねばならぬ、と云った種類の気休めに落ちているように見える。
終局の問題は著者の教学[#「教学」に傍点]のイデーの内にある。教学は東洋的封建観念論の性格的なもので、生産技術と凡そ無関係なことを一特色としている。それであるが故に、之は科学[#「科学」に傍点]ではなくて教学[#「教学」に傍点]であり、学術[#「学術」に傍点]ではなくて教え[#「教え」に傍点]なのだ。だから著者が理科教育などについて云い得ることは、自然を通じて神を見ることを教えるのだとか、優れた自然科学者は又宗教家であるとかいう、ナンセンス以上のものではあり得ないのである。教学主義を以て理科教育や科学的精神の教育を企てることが如何に無意味であるかを、吾々はもう少し真面目に省察することが必要だろう。――こう考えるとき、私は日本伝統の問題の困難さを、この書物によって愈々切実に感ぜざるを得ない。
著者は、教育は「児童より」と称して、児童の要求を出発点とすることを力説するように思われるが、今
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