のように見受けられる。経済現象に於ける弁証法的展開の過程はあまり原則的な線を踏んで跡づけられてはいない。経済現象の弁証法的発展の動力として需要力[#「需要力」に傍点](之は人口関係に関する)と生産力[#「生産力」に傍点]との相互関係が挙げられており、前者に関しては衝動と欲望[#「欲望」に傍点]との問題が、後者に関しては合理化[#「合理化」に傍点]の問題が取上げられているが、主体[#「主体」に傍点]にぞくするこの衝動や欲望と、客体的[#「客体的」に傍点]な経済組織におけるこの合理化との連絡は、一寸見当らないように思われる。自然的[#「自然的」に傍点]衝動乃至欲望と社会的[#「社会的」に傍点]合理化過程とが、進化論のアナロジーによって、同じく弁証法的[#「同じく弁証法的」に傍点]と呼ばれているに過ぎない。だからこの弁証法は、一体有機体説なのかそれとも又本当に弁証法なのかがハッキリしないのである。
 こういう、最後の限定を残した擬似弁証法につきものであるのは、ブハーリン型の均衡理論[#「均衡理論」に傍点]であるが、博士も亦均衡論者であるように見える。景気変動論に立脚する博士にとっては均衡の破壊が不況であり、均衡の恢復が好況に向かうということであって、資本主義のサイクルは多分一九四六(?)年度までに上昇期に這入るだろう、と博士は予言している。現在の行きつまった帝国主義的独占資本主義は、統制経済・ブロック経済・の計画経済によって、華々しくその強健な均衡を恢復するだろうというのである。この際博士が興味と期待とを最も大にしているものは所謂「日満ブロック」乃至「東亜モンロー主義」であるように見える。ビジネス・サイクルを仮定することは資本主義の均衡が絶対的には破壊されないと仮定することである。之が博士の非常時的「イデオロギー」なのであり、そして博士によれば、異った立場にある人はその人々で、各々のイデオロギー実現のために、生の激流に投じて抜手を切って進むことが勧められる。
 処で今日、均衡主義の経済哲学の多くは現象主義に立っているようである。之はパレート一派の所謂数理経済学などに於て最も著しい。博士の現象主義は併しその経済価値論に於て最も著しく現われている。客観価値説でも主観価値説でもなく、又二つの折衷でもなくて、最小費用最大効用という経済の理想へ進むことから来る差額剰余の拡大[#「差
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