存在を貫く現実的な原理は見つからないのである。その意味に於て之は「生活」「生」に立脚した経済哲学ではないと云って好いだろう。
京大の石川興二博士はすでに、ディルタイの方法に倣って「精神科学」としての経済学を書いたが、之は明らかに一種の「生の経済哲学」である。ディルタイの愛好者である博士は、アリストテレスとアダム・スミスの学説史上の意義を明らかにしようとするのであるが、ややたどたどしいその文章によって、ディルタイの水際立った方法がどこまで模倣され得たかは疑わしい。
法政大学教授高木友三郎氏の学位論文「生の経済哲学」は、今云った二つの経済哲学とその立場を夫々異にした注目すべき著述である。左右田経済哲学に対しては、夫が一般に「生」の経済哲学であることによって、それから石川経済哲学(?)に対してはこの「生」がディルタイの生の概念とは全く別なものだという点に於て、夫々に対する区別は明らかになる。ディルタイの歴史哲学的[#「歴史哲学的」に傍点]「生」に対して、生物学的[#「生物学的」に傍点]「生」がこの経済哲学の原理となるのである。
高木博士による生の経済学の何よりもの特色は、人間の歴史的社会的生活が、進化論によって、即ち博士に従えば、生存闘争・自然淘汰・によって、説明出来るとする想定の内に横たわる。人間の生活を統制する規範としての法則(規範法則)も全く生存闘争によって淘汰されて吾々にまで残されたものに外ならない。従って之と経験法則とは元来合流出来る筈のもので、経済法則[#「経済法則」に傍点]の如きはその一例なのだと博士は考える。経済法則とは経済価値[#「経済価値」に傍点]の実現展開の法則のことであり、之によって生はよりよき善[#「よりよき善」に傍点]に高められ、かくて文化価値[#「文化価値」に傍点]そのものの進展に資することが出来るというのである。之が経済現象に於ける進化の謂である。
処で普通進化論は生物学主義的な有機体説[#「有機体説」に傍点]に結び付き勝ちであるが、博士は進化過程の動力を説明するのに、寧ろ弁証法[#「弁証法」に傍点]を以てしようとする。細胞の相互抗争による相互作用(もはや単なる因果関係ではない)を介して生物個体が運動し変化するように社会の運動・変化(進化)・も亦弁証法を介して初めて行なわれると考える。
だが博士による弁証法の哲学的解明は多分に曖昧
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