資本に対立するものが即ち科学だという観念は、資本主義下に働いている技術家が、最も自然発生的に感得する一つの知恵だろう。技術家は自分[#「自分」に傍点]の科学が、常に資本家の資本に対立することを意味する。そこで資本対科学と考えたくなる。だが豈計らんや、この資本と科学との対立こそ、資本主義の上での対立だったのだ。私は一般にテクノクラシー的観念の発生を、こういう風にして説明出来ると考える。わが大河内博士の「科学主義工業」的観念も亦、日本的な農本主義によって色揚げされたテクノクラシー的観念の一つではないかと、推察するのだ。
科学主義[#「科学主義」に傍点]という言葉が抑々、妙なものである。本当の科学的精神[#「科学的精神」に傍点]は科学主義などという言葉に本能的な不純さを感じるだろう。それは科学の専門家に特有な或る制限された観念を象徴している。特に自然科学専門家の、専門家なるが故に制限された科学的精神を象徴する様だ。之は文学主義[#「文学主義」に傍点]と好一対の仇名として相応わしいだろう。
だが私は大河内博士の「科学主義工業」の観念の背景をなす社会的地盤を検討出来なかったのを残念に思う。
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(博士は雑誌『科学主義工業』十二月号から、「資本主義工業と科学主義工業」という論文を執筆している。今の処まだ要点に触れる処まで議論が進行していない。だがすでに気になるのは、産業革命を単に科学の発達の功績に帰しようとし勝ちな点の見えることだ。その科学の発達自身が、却って技術的社会的な要求に基いて行なわれたという、より根本的な関係にあまり注意を払わないらしいことだ。科学から第一テーゼを出発させるという意味で、ここでも氏が科学主義[#「科学主義」に傍点]的な工学者であることを、吾々は忘れてはならぬ。)
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[#改段]
※[#ローマ数字4、1−13−24] 書評
1 マルクス主義と社会学
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――住谷悦治氏の『プロレタリアの社会学』に就いて――
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元来「社会学」なるものは、近世ブルジョアジーがその市民的生活の自己認識を一般化するために造りだしたところの、ブルジョアジー特有の、一種の告白科学だともいうことが出来る。それは市民生活の理想のための内的闘争と未来への希望とから、始まった。この
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