必然的な属性の一半であるべき高賃金という要因が、日本の、而も日本の農村の、特有な事情に基くということは、何としたことだろうか。
 そして第二に気のつく点は、ここに突如として「農業精神」が出現して来ることだ。つまり農民の忍耐力がその唯一の根拠であったということだ。だが農業精神と名づけられる農村労働力の忍耐力は、一体科学主義工業に於ける科学[#「科学」に傍点]とどんな関係にあるのだろう。だが一方に於て日本産業の海外発展という目標を持ち、他方に於て何等かの意味での社会正義――それはやがて社会的な道徳[#「道徳」に傍点]ともなる――という目標でも持つとすると、この二つのチグハグなものを、観念的に結びつける観念は、全く農業精神というようなものでありそうなのは、蓋し現代の一部人士の常識ではないか。然り、一部人士の常識[#「常識」に傍点]だ。だが決して科学[#「科学」に傍点]ではあり得ない。科学主義工業は、高賃金という名目上の属性を必然的ならしめるためには、日本農民のやや憐むべき道徳[#「道徳」に傍点]を援用しなければならぬ。科学ではなくて道徳をだ。
 農村工業が何故特に副業[#「副業」に傍点]でなければならなかったかも、全くこの日本農民の道徳[#「道徳」に傍点]のおかげであって決して科学主義工業そのものの科学のおかげではない。大河内氏は、農村工業化の非を覚って、科学主義工業による農村副業論に到達した。この非を覚ったことは、資本主義工業から科学主義工業への転向かと思われたのだが、今や必ずしもそうではない。どうも工業的精神から農業精神への転向であるらしいのである。するとつまり、却って科学的なものから道徳的なものへの転向でもあるらしい。実際博士によると、工業的精神は資本主義的で、農業精神は科学主義的であるようにも見える。欧米の工業は資本主義個人主義のもので、日本の農業精神とは相距ること頗る遠いと云っているのである。
 でこう見て来ると、所謂低コスト高賃金の科学主義工業は、一般的な科学主義工業ではなくて、単に日本的[#「日本的」に傍点]な科学主義工業だということになる。すると一般の科学主義工業では、やはり私の云う通り、低コスト低賃金の方が科学主義[#「科学主義」に傍点]的により合理的だということになるのである。日本の科学主義工業を離れて一般の科学主義工業など何の意味があるか。吾々は抑々
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