リーであったことが暴露される。歴史はそういう暴露を仕事とする。ルネサンス以来の文化の歴史は、ヒューマニズムが立つ満足というカテゴリーが擬似範疇でしかないことを示している、という。
 ヒュームはこの反ヒューマニズムの哲学の基礎を近代カトリック系のドイツ哲学に迄も求めている。マイノンクの対象論やフッセルルの『学としての哲学』にその裏づけを見出す。特に後者を援用して云うには、哲学は学であって決して世界観[#「世界観」に傍点]の如きものであってはならない、と云うのである。なる程世界観なる概念はディルタイによって代表されるようにプロテスタントのものである。従って又哲学は「生の哲学」であってもならないわけだ。生命的[#「生命的」に傍点]なものに於てしか文化や芸術を求めることを知らないのが、ヒューマニズムの大きな制限だというのである。ヒューマニズム的な意味に於ける生命を有たぬものこそ、実在だというのである。生命感や世界観のカテゴリーの拒否と共に、ヒュームは進歩の観念をも拒否する。進歩[#「進歩」に傍点]とは人間と神との間の絶対的間隔をズルズルに埋めて了うためにヒューマニズムが用いる処の擬似範疇だというのである。
 さて以上のように紹介して見ると、この論文がヒューマニズムの特性を可なり鋭く指摘していることが判る。私はルネサンス以来のヒューマニズムとルネサンス以来の唯物論との不可避的な癒着については多大な疑問を持っているので、ヒューマニズムの弱点についてはここから教えられる処が多かった。ヒュームは或る個所で自分のカトリック主義が一見唯物論に近く見えるが、それは固よりそうではないのだ、というような弁解をさえ必要としているが、それ程に、この論文は、ヒューマニズムと唯物論との差異の考察にとって、参考に値いするものを含んでいる。尤もヒューマニズムとみずから名乗るものが必ずしもヒューマニズムとは限らず、又ヒューマニズム反対者が必ずヒューマニストでないとも云えない。ヒューマニズムというカテゴリーを言葉として承認するかしないかで、ヒューマニズム肯定か否定かは判らない。吾々は言葉とレッテルとに迷わされてはならぬ。現にヒュームさえも、今後の文化は矢張り今日までのヒューマニズムを包括してその dry hardness なる文化形態を進めることが出来よう、この点ルネサンス以前のカトリシズムとは異るのだとも
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