が法の哲学から分離し、従って倫理学の代りに社会科学的道徳理論が発生する一応の基礎は、この時出来ていたと見るべきだろう。社会科学的な道徳理論の原則乃至方法である史的唯物論は、『ドイツ・イデオロギー』を以てその基本的な労作とする。――だが実は、社会科学乃至マルクス主義による道徳問題プロパーに関する文献は、極めて乏しいことを告白せねばならぬ。
 E・A・プレオブラジェンスキーはパンフレット『道徳及び階級規範について』(希望閣訳版)で云っている。「道徳問題に関するマルクス主義文献は――云うに足りない。マルクス及びエンゲルスの著書及び手記の或る個所、並びに史的唯物論の理論に関するマルクス主義文献に於ける道徳方面について軽い論述の他には、K・カウツキーの有名なパンフレット『倫理と唯物史観』、G・V・プレハーノフの著作の或る部分、特にフランス唯物論者に関する部分、A・ボグダーノフの著作の或る部分、N・ブハーリンの著書『史的唯物論の理論』の或る頁、マルクス主義的見地からは完全に良いとは云われないのが、J・ディーツゲンの或る著作、を示すことが出来る。そしてこれで全部であるように思われる」云々。――無論広く道徳問題に直接関係のある特殊諸問題(例えば性問題とか文学と政治との関係の問題とか)については、論述は限りなくなるのだし、又一応の道徳理論の教程にも存するのだが、併し結局プレオブラジェンスキーのこの小さなパンフレットが最も纏ったもののように思われる。

 ヘーゲルは法乃至道徳を、自由なる絶対精神の発展段階の一つと見た。だが之は決して道徳についての説明[#「説明」に傍点]ではない。単に現前の道徳という諸事象の持つ形態を明らかにし、それが有つ一種の意義・意味を解釈したに過ぎない。ただの道徳意識や何かでなく、家族とかブルジョア社会とか国家とかいう、道徳的「実体」を見出したことは、確かにヘーゲルの卓見だが、処が折角のこの道徳的実体[#「実体」に傍点]も、絶対精神の現われだというのでは、之の分析を通じて夫が含む現実の諸問題を処理するのに、何の役にも立つまい。なる程こうした家族其の他の客観的な道徳的実体が人間の歴史にとって極めて重大な実質をなしているということは一つの事実だが、そういう事実を、歴史的に科学的・因果的・分析を用いて説明することと、この事実が単に世界史の発展の一段階だという意味を持っていると解釈することとは、別だ。そういう解釈ではこの道徳的実体の現実的な意味が解釈さえ出来ないのだ。
 解釈[#「解釈」に傍点]としては道徳は絶対精神の現われでよいかも知れぬ。ただ困るのは、それでは現実の道徳関係の理論的な説明にはならぬという点である。歴史はディルタイなどがそう云っている処とは反対に、正に説明[#「説明」に傍点]されるべきものであって単に解釈されるべきものではない。と云うのは、歴史に於ける事件の時間的前後相承の関係こそ、因果的[#「因果的」に傍点]に説明されることを必要とするものなのだ。歴史の発展を因果的に説明すること、丁度博物学・自然史が自然の歴史的進化を因果的に説明するように、社会の歴史的発展進化を因果的に社会の自然史的発達として説明すること、之こそ歴史の科学[#「歴史の科学」に傍点]の方法であり、史的唯物論の方法なのだ。
 さて道徳を社会の自然史の立場から科学的に説明しようとすると、之は一つのイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]に他ならぬものとなる。社会に於ける生産関係をその物質的基底として、その上に築かれた文化的・精神的・意識的・上部構築が一般にこの場合のイデオロギーという言葉の意味だが(尤もイデオロギーとは社会の現実の推移から取り残されたやがて亡びねばならぬ意識形態をも意味するが、道徳に就いてのこの意味でのイデオロギー性質も後になって意義を見出すだろう)、社会のこの上部構築としてのイデオロギーの一つが道徳現象だということになるのである。政治・法律・科学・芸術・宗教・それから社会意識、こうした文化乃至意識が夫々イデオロギー形態であるが、道徳はこの諸形態と並ぶ処の一イデオロギーだというのである。
 だがここで注意しておかなくてはならぬ点は、こうしたイデオロギーとしての道徳なるものが、他でもない一つの文化領域[#「領域」に傍点]を指しているものだという点である。ではどういう領域かと云うと、すでにヘーゲルが見たように、夫は客観的に見て、社会の習俗やその習俗が制度的な実体となった習俗性(人倫)――家庭とか市民社会とか国家とか――でもあれば、主観的に見て道徳意識のことでもある。それだけではなく例えば法律其の他という領域にもその背後には道徳が横たわっている。だから道徳を一つの領域と見るにしても、それがどういう限界を持った領域なのかは、事実容易に決定し難いのである。処が通俗常識は極めて常識的に、道徳というものを何か一定の決った又判った領域だと仮定する。事実又吾々は日常、常識に対しては融通を利かすという特権を許しているので、之が一応立派に通用するのだ。で今、道徳が法律や政治や科学・芸術・宗教・等々と異った一つのイデオロギーだという時、こうした領域としての道徳[#「領域としての道徳」に傍点]という常識を仮定し、之を借用利用しているわけである。無論之はさし当り少しも困ることでもなければ間違ったことでもない。実際吾々はこのような通俗常識的な、従って又倫理学的な、道徳の観念を、批判打倒するためにも、まずこの観念を一旦許してかからなければなるまい。社会科学によるイデオロギーとしての道徳[#「イデオロギーとしての道徳」に傍点]の観念は、丁度そういう克服の過渡期にぞくする処のものだ。夫は一方に於てこの常識的な道徳観念を想定し借用する(之は領域道徳主義から始めて例[#「例」に傍点]の道徳律主義や善悪価値中心主義其の他までを想定し借用することになるだろう)、と共に之を批判し克服することによって、そういう通俗常識的道徳観念をば消滅させる処の、理論にぞくする。そこで所謂道徳なるものは終焉[#「終焉」に傍点]するのだ。――で社会科学的道徳観念(「イデオロギーとしての道徳」の観念)は、それ自身が初め肯定したものを終局に於て否定するという、ディアレクティックな特色を、特別に著しく帯びている。つまり、社会科学にとっては、所謂道徳は大いに問題とされ得るとも見えるし、又道徳は問題にならぬとも見えるわけで、史的唯物論に於ける道徳理論が量的に貧弱なのは、この点から云っても単に偶然ではないだろう。
 道徳を一つのイデオロギーと考えるこの社会科学的道徳観念は、それが道徳を一領域と見做してかかるという点では、なる程通俗常識に沿うものなのだが、併し同時に道徳を一つの上部構築としてのイデオロギーと見ることは、通俗常識による道徳観念の最も包括的で根本的な特色であった処の、あの道徳の形而上学説、つまり道徳は不変不動であり従って絶対的で神聖な権威をもつ価値物だと思い込んでいる処のあの道徳観念を、残る処なく根こそぎに覆して了うことなのだ。イデオロギーとは、社会に於ける物的根柢の歴史的発展を原因として生じた歴史的結果であり歴史的一所産に過ぎないわけだから、通俗常識が道徳という観念で何より頼みにしていた道徳のあの絶対性は、道徳が一つのイデオロギーだというただ一つの言葉で、根柢から揺ぎ出すのである。社会科学的道徳観念が最初から通俗常識乃至ブルジョア倫理学による道徳観念を超克している点は、云うまでもなくここにあるのだ。――そのためイデオロギーとしての道徳という観念が、道徳の通俗常識の一切[#「一切」に傍点]の特色を悉く払い落して了ったものだ、というような感じも産まれて来るのだが、必ずしもそうばかりではないということを、私は今云った。

 史的唯物論によれば、道徳の本質はその社会的性質[#「社会的性質」に傍点]に存する。理論的社会科学では人間は、個々の個人として理解されるのではなくて、社会に於て社会的生活をなす個人をしか意味してならぬのは云うまでもない。個人とは社会的個人だ。ブルジョア倫理学の多くのものは処が、この個人を社会から切り離して了って単なる個人と見做し得るという想定に立っている。従ってそれに基く倫理学的な道徳とは、その材料となる内容は何であるにせよ、その様式から云えば、全く個人[#「個人」に傍点]自身の内にしか根拠を有たないもののことだ。人格の自律とか自由とか責任とか良心とかいうものは、個人に於ける道徳のこの倫理学的根拠を云い表わすために選び出された言葉に他ならない。その意味で、多くの倫理学は、道徳を個人道徳[#「個人道徳」に傍点]と考えている。道徳の本質はその個人的性質[#「個人的性質」に傍点]にあると考える。ブルジョア社会は個人のアトミスティックであったから、最高の哲学的原則は何によらず個人の内に求められる他はない、そうしなければ全く外面的な機械的な尤もらしからぬ説明になるからだ。道徳も亦そこでは、専ら内面的[#「内面的」に傍点]なものとなる。処で社会科学的道徳観念によると、道徳は社会的本質のものだというのである。尤も之は道徳の歴史的発達の事情を少し考えて見ればすぐ判ることだし、又原始社会で現に行なわれている事実を見ればすぐ気のつくことだ。処が倫理学は、倫理的な価値の問題がこうした事実の問題とは関りなく成り立たねばならぬという風に考える処から、この事実に対して充分に倫理学的な尊敬を払おうとしない。事実の理論的分析を因果的に果そうとする史的唯物論が、この事実を正当に尊重し得る最初のものであると共に、この事実が持つ処の倫理的[#「倫理的」に傍点]意義自身を初めて見出し得るものも亦、史的唯物論でなければならぬ。
 かくて道徳とは、要するに社会に於ける制度[#「制度」に傍点]と夫が社会人の意識に課する処の社会規範[#「社会規範」に傍点]とになる。尤もこの際、社会科学的な道徳観念はなお通俗常識を仮定しているので、制度という習俗的「実体」自身を道徳に数えることを、多少躊躇するだろう。道徳なる領域・イデオロギーは、単に習俗という客観的に横たわる制度のことではない、それならば一つの社会機構であってまだその上層建築としてのイデオロギーではないかも知れぬ。この習俗が社会人の意識に対してゾルレンの意味を有つ時初めて、そこに道徳というイデオロギーの一領域がなり立つのだ、と考える。で道徳とは、つまり社会規範だ、ということに大体落ちつくのである(なお、倫理的「実体」を発見したヘーゲルがカント倫理学によるゾルレンを最も軽蔑したのは、今の場合興味のないことではない)。
 この社会規範[#「社会規範」に傍点]なるものが俗に[#「俗に」に傍点]「道徳」と呼ばれる処の、或いは神来の或いは先天的の、或いは永遠な理性に基く神聖な、価値物の実質だと考えられる。云うまでもなく社会規範とは社会生活が円滑に進行出来るための行為の標尺になるもののことだが、処が社会生活そのものの本質はその物質的根柢から理解される他はない。処が社会機構の本質、終局的な要因は、社会の生産機構(物質的生産力と生産関係)である。従ってこの社会規範は社会の生産機構乃至生産関係からの、云わば物質的な歴史的所産に他ならない。一切の生産様式は、社会規範となることによって初めて、人間の社会生活を、人間の社会に於ける生産生活を観念的に統制し得る。社会規範は社会の生産様式の反映だ。――例えば殺人行為について考えて見てもよい。古代奴隷制以前の社会では、捕虜は皆殺されることになっていたらしい。処が奴隷労働力が社会の生産力として充用されるような生産様式即ち(奴隷制)になると、捕虜を奴隷にする代りに殺して了うことは、禁じられる。殉死は往々最高の道義的殉情の発露だと説明されるが、之は家臣という奴隷が一つの私有財産であったという所有関係(生産関係の直接の表現)を示すに他ならぬ。姨捨山は不生産的な労働力を維持するだけの労働営養(食物)の過剰のない生産組織の或る時期に起きる。それから、帝国主義戦
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