態で即ち又抽象的に自己を自覚し自己を現わしたものが、「論理の科学」の世界たる論理[#「論理」に傍点]であり、この論理が一旦自分を投げ出して自分とは別になったものの内に却って自分を見出すような関係にまで具体化された段階が、「自然の哲学」の世界たる自然[#「自然」に傍点]であるとして、更に、この自然とは実は概念乃至理性が自分で自分を引き離したものに過ぎなかったのであり、自然それ自身はもはや概念乃至理性とは別なものではないという関係をもう一遍具体的に実現した(自覚した)段階が、「精神の哲学」の世界たるこの精神[#「精神」に傍点]なのである。――客観的精神とは主観的精神が外界へ自分をなげ出して、そこに却って初めて身分の形ある姿を発見するという関係にある精神のことだ。そして法乃至道徳が恰も之だ。
 さてこの客観的精神即ち法乃至道徳(必ずしも法律や道徳律に限らぬ)は、ヘーゲルによると元来、理性乃至概念の発展段階の一つであったが、それ故に又自分自身の内に、三つの発展段階を含んでいる。第一は「法」(乃至「抽象的法」)であり、第二は「道徳性」であり、第三は「習俗性」(「人倫」と訳されている)だというのである。この三つの段階が例のアンジッヒ・フューアジッヒ・アンウントフューアジッヒ・の弁証法的連関に於て叙述されていることは勿論だ。
 法(Recht)乃至抽象法は、日本語で普通或る意味で法律と呼んでいるものに相当する。と云うのは、法律という日本語はGesetz――法文・法律[#「律」に傍点]ばかりでなく、法文・法律[#「法律」の「法」に傍点]が云い表わすRecht――狭義に於ける法[#「狭義に於ける法」に傍点]をも意味するから。この狭義の法乃至或る意味での所謂法律が、まず道徳(吾々が今その観念を探ねている処の)の第一の現われ方だ、というわけである。法というヨーロッパ語は同時に権利[#「権利」に傍点]を意味していることを忘れてはならぬが、事実、権利のブルジョア社会機構に伝えられた一等著しいものは所有権だ。所有[#「所有」に傍点]は契約[#「契約」に傍点]と共にブルジョア社会(市民社会)機構の二つの根本的な法的道徳的現われだろう。この場合、市民社会に於ける反社会的不道徳は何かと云うと、所有権の否定や契約の不履行という不法[#「不法」に傍点]でなければならぬ。で、所有・契約・不法・の三つが法(法律・乃至抽象法)の三段階をなすとヘーゲルは書いている。
 ヘーゲルによれば法律に次ぐ第二の段階が道徳性であるが、法律が社会の外部的乃至内部的強制として、法が云い表わす自由の観念にとって偶然であり、その意味で抽象的であるが、之に反して道徳性は、それに必然性の意識が裏打ちされているので、法概念がそれだけ尤もらしさを得、その意味で法概念がより具体的になったものだ。処で倫理学や常識の或る段階で道徳[#「道徳」に傍点]と呼んでいるものが、丁度この道徳性の世界のことで、之が決意[#「決意」に傍点](及び責任[#「責任」に傍点])・意図[#「意図」に傍点]と福祉[#「福祉」に傍点]・善悪[#「善悪」に傍点](及び良心[#「良心」に傍点])・の三段階を含んでいるのを見れば、この点すぐ判ると思う。決意や責任という自由意志[#「自由意志」に傍点]の問題や、幸福[#「幸福」に傍点]や健康[#「健康」に傍点]や利害[#「利害」に傍点]の問題や、善悪[#「善悪」に傍点]や良心[#「良心」に傍点]の問題は、倫理学的常識による道徳問題の凡てだったろう。
 処が道徳は決してこんな処に止まっているものでは事実ないのだ。道徳は他方に於て習慣[#「習慣」に傍点]的なコンヴェンションであり又風俗[#「風俗」に傍点]的な満足でもなければなるまい。そうした習俗[#「習俗」に傍点]が社会に於けるより具象的な道徳だ。実はこうした道徳にして初めて、法律の根柢にもなることが出来る。ローマ法は慣習(mores)と切っても切れない関係に立っているという(P・ヴィノグラドフ『慣習と権利』――岩波文庫・三〇頁)。ヘーゲルはこの第三のものを習俗性[#「習俗性」に傍点]と呼んでいるのである。処で社会の習俗で人間の生物的な存在がその先行条件をなすのは云うまでもない。人間とはまず生物的な人類だ。人類とは人間の間に自然的な繋帯として生みつけられる類=性(Gattung=Geschlecht)による人間的結合から来た命名法だ(例えば嬶――Gattin、媾合――Begatten、人類――Menschengeschlecht)。この性行為に基く社会的習俗がそして家族[#「家族」に傍点](乃至家庭[#「家庭」に傍点])でなければならぬ。――人倫の倫は比倫とか絶倫とか云って、「たぐい」であり類であり、根柢に於てそれが性関係に基くことを示しているだろう。旧約聖書的な父子兄妹相姦の如きものが最も非人倫的なものと考えられるのは、だからこの言葉の上から云って当を得ているわけだ。人間のこの性関係・類関係に基く社会的制度を、古代支那の制度(礼[#「礼」に傍点])の論者は、道徳の中心に置いて考えた。恐らく仁[#「仁」に傍点]の観念が夫だろう。仁とは从であり、人間関係に就いての現実的表象だ。之を修身的なものに浮き上がらせて了ったものは、少なくとも日本近世の封建的腐儒の輩だったろうと思うが、とに角、習俗性(Sittlichkeit)を人倫[#「人倫」に傍点]と訳すことには意味があるのだ。
 ヘーゲルの家族は結婚[#「結婚」に傍点]と家族財産[#「家族財産」に傍点]と子供[#「子供」に傍点](の教育[#「教育」に傍点])とを含んでいる。処がヘーゲルによると、子供の独立は家庭からの独立であり、その意味で家庭の解消に相当する。家庭は解消されて個々の個人[#「個人」に傍点]となる(之は近代社会の事実上の根本傾向でもあるだろう)。そしてこの個々人は社会では家庭とは別な習俗に従って結合を有つに至る。と云うのは夫が個人の原子論的な(相互の間に機械的な結合関係しかない処の)結合に這入るのである(F・テニエス風に云えば共同社会関係から利益社会関係へだ。――その著『共同社会と利益社会』)。処で之が市民社会[#「市民社会」に傍点]と云う第二の習俗性・人倫の段階である。
 市民社会は即ちブルジョア社会のことに他ならぬ。之は云わばヘーゲルが発見した範疇であって、彼はこの内容の内に、需要・労働・財産・身分・司法・警察・等々の凡ての重要観念を忘れてはいない。そして特にヘーゲルの烱眼は、之を国家[#「国家」に傍点]から区別したことだ。かくて国家が第三の習俗性=人倫の段階となる。ヘーゲルは国家の規定として単に国法乃至憲法のみならず、最後に世界史[#「世界史」に傍点]を置くのであるが、世界史とは民族[#「民族」に傍点]精神の統一的な歴史に他ならない。国家は習慣風俗人情を共通にする民族を離れては考えられ得ないことになっている。だからそれが習俗性=人倫の最高段階だと考えられるのは尤もだろう。従来の社会理論の多くは社会を以てすぐ様国家だと考えた。処が国家は実際いうと(之はヘーゲルに責任を有たせることではないが)、家族・氏族・部族・民族・の次に来る一つの[#「一つの」に傍点]社会形態に他ならないのである。だから少なくとも、とに角社会(このブルジョア社会)と国家とを区別したことは、ヘーゲルの重大な功績といわねばならぬ。

 以上のようなものがヘーゲルの道徳理論(「法の哲学」)の輪郭の単なる紹介であるが、之が道徳に関して従来普通有たれたような諸観念を、如何に理解と心配りとの行き届いた仕方で取り上げたか、如何に之が道徳に包括的な観念を提供するものであるか、吾々はこの点をまず何より先に認めねばならない。経済・法律・政治・等々と所謂道徳との関係、風俗習慣人情等々と所謂道徳との連関など、之によって略々一応の連絡がつけられているということが、尊重されねばならぬ点なのである。なぜかというと、こういう予備的な観念がない処に、道徳の社会科学的観念などは発生し得ないし、又理解もされ得ない根柢をも欠くだろうからだ。
 処がヘーゲルの社会理論(法の哲学)、夫が道徳理論に他ならぬのだと私は云って来たのだが、夫に一つの疑問が生まれて来はしないか。一体なぜ私は、社会をそうした(私が云う意味での)道徳でもあるように説明し得たかと云うと、それはヘーゲルのこの社会理論がつまり法の哲学だったからのことだ。いや、その法[#「法」に傍点]又は法の哲学[#「哲学」に傍点]なるものが、他ならぬ客観的精神[#「精神」に傍点]の現われや現われ方の叙述に他ならなかったからだ。つまり社会はヘーゲルによると絶対精神=理念=概念の自己発展段階に他ならなかったからである。だから社会的なの[#「社会的なの」に傍点]が皆法[#「法」に傍点]にぞくすると考えられているので、私は之を、私が今私かに予定している道徳の観念に照し合わせて、敢えて道徳の世界と合致するものと見做したのである。
 併し社会が道徳的なもの、というのは法的なもの、と称することは、他でもない、例の倫理学の建前に他ならなかった筈だ。従ってヘーゲルの法の哲学による道徳理論は、実はまだ充分倫理学的な夾雑物から自由になっていない。之は倫理学と社会科学とが月足らずの双生児として癒着したようなものだ。夫は即ち、まだ本当に社会科学的[#「社会科学的」に傍点]な道徳の観念に行き得ないことを意味するわけだが、それと云うのも、ヘーゲルの例の理性=絶対精神=概念の独自な自己発展という体系に責任があったことだ。
 この点はだが、凡ゆる機会に吾々が反覆聞かされている処である。ヘーゲル体系の弱点は、その方法(弁証法)とそれの使用の客観的な必然性とに拘らず、一つの封鎖された閉じた体系を与え得ようと欲する処に存する。その一例はヘーゲルの国家の概念であって、当時の現実のプロイセン的国家の諸規定が、他ならぬ国家のイデー[#「イデー」に傍点]にされて了っているのも、体系が現実に終りに到着出来ると考えたその有限的な弁証法(有機体説的全体説)の形式のおかげだが、こうした有機体説的弁証法を採用させたのは又、彼の愛好した体系なるものの性質の欠点からだ。この観念論的体系[#「観念論的体系」に傍点]が、その弁証法という方法をも、観念的なものたらしめた。――云われているように、ヘーゲルの体系の客観的意図は(ヘーゲル自身の主観的意図はとに角として)、従来の観念論通り、単に世界を解釈することにあって、世界を変革することにはなかった。解釈のための体系としてなら、世界を理性の自己発展と見ることは、最も面倒がなく手際よく行くものに相違ない。
 でこの解釈の哲学[#「解釈の哲学」に傍点]の体系に立つと、社会的な諸世界も凡て法という性格を有ち、客観的精神という本質のものになる。だから、この際社会的な諸世界は道徳に解消されると云っても、説き過ぎではあるまい。――ヘーゲル哲学の弱点は、その自然哲学に関する騒然たる批難嘲笑を除けば(これでもエンゲルスが自然弁証法を惹き出す歴史的根拠となったのだが)、正にこの「法の哲学」の内になければならぬ。即ち、丁度吾々が問題にしている道徳理論をめぐって、ヘーゲルの弱点と、それの批判克服とが、一般に必然性を有って来るわけだ。吾々の議論にとっては全く都合のよい事情である。
 ヘーゲルの「法の哲学」を系統的に批判しようとした者は他ならぬ初期のK・マルクスであった。『ヘーゲル法哲学の批判序説』(一八四四年)と『ヘーゲル国法の批判』(一八四三年)とが夫であるが、特に未完成な後者の方は、ヘーゲル『法の哲学の綱要』の二六一項から三一三項までを、逐条的に要点に就いて批判したもので、マルクスがヘーゲルの逆立ちを如何に足で立ち直らせようと試みたかの、よい見本と云っていい。当時のマルクスはまだマルクス主義者になり切っていないと考えられる時期の人だが、併しもはや三四年以前のマルクスのような一人のヘーゲル学徒にすぎぬ者でないことは、勿論だ。社会科学
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