争に於ける敵の殺戮は倫理的命法にぞくするだろう、等々。
道徳は併し権威[#「権威」に傍点]を有っていると云うだろう。処がその権威は実は単に権力[#「権力」に傍点]が神秘化されたものに過ぎぬ。道徳の権威とは、権力としての社会規範に過ぎぬ。而もその権力自身が生産関係から生じることは又、見易い道理だ。家父長の権力は彼が家族を扶養し得るという経済的実力から来る。この一人前の男は社会の生産機構に与っているが故に(実際には社会の生産的な要素でなくて社会の穀つぶしであっても)、一人前の男として妻子を所有し養っている。之に反して妻や子供達は単に社会的生産に於て穀つぶしであるだけではなく、元来社会の生産機構そのものに殆んど全く与っていない。彼等は経済的に夫に依存する処の、社会的に見た限り単なる消費者なのだ。たとい家内労働に於て何か生産的であっても、そういう内助[#「内助」に傍点]は社会的には不生産的なものとしか見做されない。で、こうした夫の一般的な(例外はいくつあってもよい)経済的優越が、今日の家父長の権力を成り立たせ又保持していることを、知らぬ者はあるまい(夫は所天[#「天」に傍点]と書くが天は古代支那で扶養者を意味する)。この権力を承認することがこの社会の経済的秩序を維持するために必要で、そこに生じるものが一連の家族主義的道徳観念や道徳律なのだ(F・エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』はこの場合依然として古典的意義を持っている。――家族感情の科学的説明としては、R・ブリフォールト「家族感情」――青山訳『国家及家族感情の起原』の内――や、コロンタイ前出書などが参考となる)。
社会秩序・身分関係は、つまる処権力関係として現われるが、そこに一定の尊敬[#「尊敬」に傍点]の体系が、そういう礼俗[#「礼俗」に傍点]が、発生する。人格に就いての現実的な観念も(人格はカントも云う通り尊敬の対象目的物だが)ここに初めて成立するのである。処がこの夫々の時代に一般普通の世間に通用する筈の礼儀風俗が、実は社会の生産関係や之に依存する家庭経済の直接の反映であることは、特別な場合に、例えば家庭経済上の破綻などに際して、著しく身に応えて判るのであって、つまり妻を養うことの出来ない夫が威張るというようなことほど、立派に道徳的で而も滑稽に見えることはない、というようなわけである。わが国の封建的武士階級支配の権力を反映する社会規範が、忠義であり武士道であり、又孝行であったことも有名である(赤穂義士の歌舞伎的道徳へのアッピールはこれを特徴的に物語っている。而もこの快挙の最後の原因はこの浪士[#「浪士」に傍点]達を産み出した「お家断絶」の件であるが、倫理的理由に基くこのお家断絶が亦、幕府の領有拡大を目的としたものだった)。其の他其の他。
かくて社会的権威を有っている一切の道徳、道徳律、徳目・善悪の標準が、社会的権力を、社会的身分関係を、社会的秩序を、つまり結局に於て社会的生産関係を、反映している処の、社会規範の他ではなかったと云わねばならぬ。つまり一定の支配的な社会生産関係の維持乃至発展にとって有益[#「有益」に傍点]なものが道徳的であり、それにとって有害[#「有害」に傍点]なものが不道徳的なものだというわけだ。通俗常識が道徳について何より先に考えつく処の、例の善悪[#「善悪」に傍点]の対立は全く之に他ならない。単に銘々の個人々々にとって有益な好ましいものが道徳的で善だというのでもなく、又ベンサム風の単なる数量上の最大多数者の最大幸福が道徳的善だというのでもない。問題は個人々々にあるのではなくて社会にあるのであり、そしてその社会の意義もその単なる人頭関係ではなくてその生産関係という質の内にあるのである。社会規範[#「社会規範」に傍点]が道徳だということは、そういう意味に於てなのである。
だがこういうと、倫理学的常識は必ず反発と不満とを禁じ得ないだろう。それでは道徳に特有な道徳的感情・道徳的情緒――道徳的な満足感乃至後悔・義務感・正義感・良心・等々――が見逃されて了うではないか、而もそこにこそ道徳の道徳たる所以があった筈ではないか、と云うに違いない。だが、史的唯物論に従って道徳をイデオロギーとして見る吾々は、何もこの道徳感という一つの明瞭な事実[#「事実」に傍点]を見ないのでも忘れているのでもない。之こそ実は初めからの問題に他ならぬ。ただ吾々の問題は、この道徳感情をその社会的成立過程から科学的に説明する[#「科学的に説明する」に傍点]ことにあったのである。然るに倫理学者は逆に道徳感情を以て社会的道徳現象や一般社会現象を解釈しようとする。ただ夫だけの差なのだ。だがその差の意義は絶大である。
道徳を社会規範として社会的に説明する[#「社会的に説明する」に傍点]ことは、道徳を単なる社会関係そのものに還元して了うことではない。もし之を単なる社会関係に還元して了ってよいなら、初めからイデオロギーなどというもので道徳を云い表わす必要はなかった筈だ。イデオロギーは下部構造としての単なる社会関係に還元出来ない上部構造であったればこそ、特にイデオロギーだったわけだ。
だから道徳には道徳に固有なものが存するのである。之がなければ道徳は道徳にならぬ。そしてその固有なものと云うのが社会規範ということだ。道徳に固有なものと云っても、夫が何か道徳という一定の封鎖された埒内だけで独自に孤立的に片づくものだと考えるならば、そういう封鎖国家のような倫理的アウタルキーが、例の倫理学でいう「道徳」の世界だったのだ。そんなものは道徳の固有性を倫理学的[#「倫理学的」に傍点]に誇張した偏見に過ぎない。決して固有なものがないというのではない、その固有なものをこういう風に理解することが根本的に誤っているというのである。――道徳には善悪の価値対立というような固有なものがある。それは一つの事実だ。少なくとも人々が自分も他人もそういう価値感を以て行動しているという一つの心理的事実だ。意志の自由が一つの心理的事実であると同じに事実だ。だから夫は否定出来ないと同時に、証明を要するものでもなければ証明が出来るものでもない。自由意志や価値感情という事実を証明[#「証明」に傍点]しようとした如何なる観念論者も理想主義者も私は知らない。と同時に彼等はこうしたものを説明[#「説明」に傍点]しようともしないのが特色である。彼等は単にこれを事実として認めることを人に求める。而もそうすることを何かその証明か説明かと思い違いをしているので、唯物論者に向かっても、出来るものならこの事実を証明して見たらどうか、と試みて来る。だが史的唯物論者は事実の証明[#「事実の証明」に傍点]などを必要とはしない、事実は認定されさえすればよい、必要なのはこの事実の成立[#「事実の成立」に傍点]の「説明」なのだ。
未だかつて、道徳という一つの事実を説明[#「説明」に傍点]し得た観念論的倫理学を私は知らない。史的唯物論のイデオロギー論による道徳理論が、初めて道徳の事実を正当に説明しようと企て、又事実之を説明しつつあるのである。史的唯物論は価値の発生を事実から説明するのである、之に反して観念論や倫理学は、価値によって事実を説明するか、それとも単に価値と事実とを区別して見るだけだ。――で道徳は、社会規範として説明[#「説明」に傍点]される。
倫理学は倫理的価値という一つの感情上の事実を単に主張するだけだ、社会科学的道徳理論は、倫理的価値感を現実的に陶冶する。倫理学は単に意志の自由の否定に抗議を申し出るだけだ、社会科学は自由一般の獲得とその現実的な形態の規定とを志す。倫理学は理想を単に想定として愛好する、社会科学的道徳理論は、一定の理想を現実的に割り出し之を現実的に追求することを志す。――この相違は凡て、道徳を社会規範として説明[#「説明」に傍点]しないかするか、の相違から来るものに他ならないだろう。
道徳が一つのイデオロギーとして社会規範として説明される時、当然なことながら、道徳の発生・変遷・消滅等々の歴史的変化が結論される。一定の社会規範の物質的原因であった社会に於ける生産関係は、その内に含まれている矛盾の関係に推されて、変化せざるを得ない。従ってその結果、道徳も亦必然的に変化せざるを得ないのである。ただ、原因の変化に較べて結果の変化の方は、大体時間的に後れるもので、道徳と現実とはその意味でいつも或る種の矛盾撞着を免れない。そういう意味で又、道徳はそれ独自の運動法則を有っているかのような現象を呈するのである(イデオロギーは凡てそうだ)。道徳の世界の絶対的な自律独立を認めようとするのも、この関係を誇張する結果からだ。
だから道徳(道徳律・善悪・其の他等々)は決して絶対真理[#「絶対真理」に傍点]ではない。それが事実上道徳的価値を云い表わす言葉である以上、道徳とは一種の真理のことだろう。だが一般に真理には決して絶対的なものはない、真理は客観的[#「客観的」に傍点]なものだ、主観的な真理などはない、客観性を有つが故に真理なのだ。だが絶対的[#「絶対的」に傍点]な真理はないのだ。もし絶対的真理があると云うなら、そういう神聖な真理は必ず何かの必要に答えている虚偽[#「虚偽」に傍点]のことだろう。法皇やツァールの真理はそういう神聖な「絶対」真理であり、即ち虚偽を蔽い匿すために神聖というベールをかけた、まやかし物に他ならない。――之は史的唯物論と唯物論的認識論との公式だが、道徳に就いても亦全くその通りなのである。
だが道徳が、その実質であるイデオロギー・社会規範、としてではなく、絶対的真理として持ち出されるのを常とすることには、一つの事情があるのである。社会の支配者がその社会の規範をあくまでも保持しようとする処に、道徳という言葉の御利益が必要なのである。つまり道徳が現実にそうした階級規範[#「階級規範」に傍点](もはや単なる社会規範ではない)として機能していればいる程、益々社会規範は単に社会規範としてではなくて正に道徳として神聖化され絶対化される必要があるわけで、ただの社会規範ならば、道徳がそういう社会規範だという説明を、そんなに恐れる必要はなかっただろう。
それでこういう結論になる。社会が階級社会である限り、道徳とは階級規範に他ならない。之が階級道徳[#「階級道徳」に傍点]乃至道徳の階級性[#「道徳の階級性」に傍点]ということである。そして社会の階級的変動(社会の凡ての根本的変動は階級的変動に原因する)は、この階級規範たる道徳[#「道徳」に傍点]の変革を必然的に結果する、という結論だ。――ここでは階級的に有益なものが道徳的で、階級的に有害なものが不道徳的だ。処が階級はいつも階級対立に於てしかあり得ないのだから、道徳は今や二つの体系に分裂する。ここにブルジョア道徳[#「ブルジョア道徳」に傍点](そこからブルジョア通俗常識的道徳観念やブルジョア倫理学的道徳観念も生じたのである)と所謂プロレタリア道徳[#「プロレタリア道徳」に傍点]との対立が起こる。道徳の闘争がそこに横たわる。旧道徳は歴史的必然の理法によって、新道徳に道を譲らざるを得なくなる。勝利する道徳が新道徳[#「新道徳」に傍点]となる。そしてこの推移の過程の内に、多くの道徳的混乱やアナーキーが、道徳的犠牲の様々が、織り出されるのである。――こういう根本的な而も眼前の事実を認めまいとするために、恰も倫理学というブルジョア理論が、今日存在理由を有っているのである。
この道徳の歴史的推移、旧道徳の殆んど完全なる根絶、全く新しい、否同じく道徳という言葉を以て云い表わしていいかどうか判らない程に新しい道徳の漸次的形成と定着、こうしたものの生きた実例を吾々の眼の前に見せているものが、ソヴェート・ロシアの最近の事情だろうと思う。今までブルジョア諸国に於て道徳自体の問題としては解くことが絶対に絶望だと思われたような問題が、社会科学的に次第に根本的に解かれつつあるのである。特に宿命的に考えられる道徳問題は性
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