道徳の夫だろうが、ソヴェートの道徳的実験はここでも見事に成功した。ここではただ、旧い「道徳」なるものを忘れさえすれば、真に道徳的になれるというような具合である(コロンタイ『新婦人論』やS・ヴォリフソン『結婚及び家族の社会学――マルクス主義的現象学入門』などが、この点の参照となる)。
さて道徳を社会規範・階級規範として説明出来た限り、実は、神秘的なニュアンスを歴史的に纏っている道徳という言葉などは、もはや理論的にあまり賢明なものではなくなった、ということを告白しなければならぬ。それだけではない、今まで人々が道徳という名の下に日常見聞きしてなれ親しんでいる旧既成道徳が、根柢的に新しい形のものとおきかえられたような実例に臨んでは、「道徳」という言葉は心理的にもあまり尤もなものではなくなって来ただろう。
元来道徳という言葉は通俗常識が最も愛用する言葉であって、吾々が日常この言葉を尊重しているのも亦、全くそれだけの理由からなのだが、処で通俗常識が之によって何を意図していたかというと、認識の不足と認識の歪曲とを、事物の科学的理論的分析と説明との欠乏と忌避とを、夫によって埋め合わせて合理化そうというのであった。だから科学[#「科学」に傍点]はこの「道徳」なるものを、どこまでも信用しなければならぬ義理合いには立たぬ。――のみならず社会規範と雖ももし階級社会が消えて無くなれば大して積極的な価値を有ったものではなくなるだろう(なぜなら今日までの社会規範は殆んど総て実は階級規範だったから)。だから夫は特に道徳という勿体振った表現を必要とする程に勿体振ったものではなくなるだろう。
いずれにしても「道徳」という観念は、有用なものではなくなる。道徳は認識[#「認識」に傍点]へ解消する。道徳の真理は科学的真理[#「科学的真理」に傍点]に解消する。レーニンはカリーニンに向かって「演劇が宗教にとって代るだろう」と云ったそうだが、丁度それと同じに、認識が道徳にとって代るだろう。否、とって代らねばならぬ。
かくて社会科学的観念によれば、道徳なるものは、この通俗常識が好んで仮定している道徳なるものは、遂に批判克服されて無に帰する。(ブルジョア)常識的観念乃至(ブルジョア)倫理学的観念としての道徳は、科学的[#「科学的」に傍点]でなかった。「道徳」は消滅する。「道徳」は終焉する。
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第四章 道徳に関する文学的観念
通俗常識では極めて漫然と、倫理学では不変不動な超越的な一つの永久世界として、社会科学では発生変化消滅せねばならぬ一イデオロギーとして、取り扱われた道徳は、結局、道徳という一つの何等か特定な領域[#「領域」に傍点]を意味するのであった。この地域は道徳であり、その外の地域は道徳にぞくさない、という風に考えられた処の道徳であった。その点から云って、社会科学=史的唯物論が、道徳に関するブルジョア卑俗常識(倫理学というアカデミックでペダンティックな名を持ってはいても)を、根柢から批判克服し去ったに拘らず、この社会科学的道徳観念自身も亦、なお依然として通俗常識のものだと云わねばならぬ。
尤も私はこの道徳に関する史的唯物論の理論が、間違っているとか、不完全であるとか云うのではない。通俗常識そのものやブルジョア倫理学は、倫理に関する常識としても理論としても、極めて不充分なもので、そして間違ったものだと私は思うのだが、史的唯物論による道徳観念・道徳理論は、実はそのままでの真理だと云って少しも差閊えはない。なぜなら、つまりこの社会科学的な道徳観念によると、一領域としての道徳の世界[#「一領域としての道徳の世界」に傍点]なるものは、終焉せしめられる筈だったからだ。にも拘らず之はなお、領域道徳という通俗常識をば、想定し仮定し利用している。だからまだ之は通俗常識のものだと云うのである。
処がこうした領域道徳の観念だけが、実は真の常識[#「常識」に傍点]による道徳観念の凡てではない。一体極めて通俗な常識は、とかく何かと云うと、道徳というものに就いて拘泥する、事物を道徳的に角立てたがる。審美的判断よりも所謂道徳的判断の方が、下し易いし興味も多い。つまり通俗常識とは通俗道徳で物を考えたり云ったり生活したりすることだろう。――だが少し教養のある常識(教養は必ずしも教育と同じではない)は、道徳というものをもっと自由に[#「自由に」に傍点]理解しているのが、世間の事実だ。既成の所与の所謂道徳などに拘泥しないことこそ、或いはそういう拘泥を脱却するだけの見識を持つことこそ、道徳的だ、とこの常識は考えるだろう。道徳々々と云うことが道徳ではない、丁度人格者というものの人格程貧困なものはないように、とも考えられる。道徳は、所謂道徳という名がつきレッテルがはられ看板が掲げられてある処にばかりあるのではない、ということになる。丁度自称の良心は却って決して良心的ではないだろうし、俺は偉いと称する人間は必ず馬鹿であるというようなものだ。処が馬鹿な人間ほど、俺は偉いと自ら称する人間を本当に偉いと思い込むものだ。
で、之こそ道徳だとみずから名乗り出るものは、実は道徳としてあまり尊重すべきものではなく、却って所謂道徳という領域には普通属していないものに、道徳の実質があるとも考えられる。之は私が道徳という言葉をそう勝手に拡大して使おうと欲しているわけではないので、事実、少し気の利いた常識のある常識は、道徳を今云ったようにしか見ていないのだ。例えばこの常識は勝れた歴史叙述の中に道徳[#「道徳」に傍点]を見る(その極端なものは「春秋」や「通鑑」の類だろう)。又例えば衣装さえが道徳を象徴する(カーライルの『サーター・レザータス』を見よ。――或る批評家はこの衣裳哲学の著者の極めて不道徳にも古びた帽子を見て、彼が衣裳に就いて哲学を語る資格を有たないことを主張した)。併し何より知られているのは、芸術作品に於ける、特に直接には文芸作品に於ける、道徳というものだろう。それが仮に芸術のための芸術であり、又純粋文学であるにしても、それだけにそれが表わすモラル[#「モラル」に傍点]は、却って純粋だとも云えるのだ。所謂道徳なるものを目指していなければいない程、そのモラルは純粋になりリアリティーを有ったものとなる。道徳の否定そのものが、又優れた道徳だ(多少文学的とも云うべき哲学者、ニーチェやシュティルナーなどを見よ)。そしてこういう文学は、よい常識・良識ならば、実は苦もなく夫を理解出来る処のものだ。そういう大衆性[#「大衆性」に傍点]を有たない純粋文学は、そのモラルが偉大でないからこそ、ケチ臭ければこそ、非大衆的なのだ。
だから常識のある常識は、世間の道徳や人格商売屋や倫理学者達などが道徳を感じない処にこそ、却って自由な生きた濶達な道徳を発見するのだというのが事実である。殆んどあるゆる文化領域・社会領域に即して、道徳が見出される。だからこの道徳は、もはや単なる一領域の主人を意味するのではないことが判るのだ。
こうした広範な含蓄ある道徳の観念は、これまで色々の名称で呼ばれて来ている。文化的な自由[#「自由」に傍点]が(自由は経済的・政治的・文化的・等々に区別されるだろう――文化的自由は人道的自由[#「人道的自由」に傍点]とも呼ばれている)その近代的な名称の一つだし、ヒューマニティー[#「ヒューマニティー」に傍点](人道ではなくて寧ろ人間性)はその近世的な名称である、等々。――夫は併しもっと適切にはモラル[#「モラル」に傍点]又は倫理[#「倫理」に傍点]と呼ばれている処のものだ。モラルというフランス語は(之は後に見るようにフランス文化を離れては歴史的に理解出来ないものなのだから)、大体物理という言葉に対立する。つまり之はフューシス(物理・自然)に対立する処のエトス(倫理)であり人事であり精神なのである。
処でこのモラルという言葉が今日では全く文学的な用語として通用していることを忘れてはならぬ。人々は文学の内に(文学を必ずしも狭く文芸に限らず広く芸術の思想的イデーと理解してよいが)、常にモラルを求めている。処がこのモラルが所謂道徳――例の領域道徳として善悪とか道徳律とか修身徳目とかに帰する処の通俗常識的道徳――でないことは、判り切ったことだろう。文学の内にそういう通俗常識的道徳律や勧善懲悪や教訓を求めることは、専ら通俗常識か道学者かの仕事であって、常識ある文学読者のなすべきことではない、ということに世間では事実なっているだろう。
さてこの文学的良識によると、道徳は、吾々が之までの各章で見なかった処の或る別な相貌を以って現われて来るわけだ。夫は現にモラルという名の下に、文学の内に最も著しく現われているのだ。或る意味に於て、文学が追求するものこそこのモラルだと云うことが出来る。――でこのモラル乃至倫理を、私は仮に文学的[#「文学的」に傍点]な道徳観念と呼ぶことにしよう。
繰り返して云うが、道徳に関するこの文学的観念は、少なくとも夫が普通世間に存在している形では、全く一つの――但し相当優れた――常識にぞくする。と云うのは、この文学的観念としての道徳に就いては、まだそれ程出来上った既成乃至自明な理論的科学的な概念が与えられているとはいうことが出来ないからである。事実文学者連が好んで使っているモラルという言葉は、概念としては至極曖昧であることを免れないだろう。この道徳観念が概念として曖昧であることは、必ずしも道徳に就いてのこの文学的観念が貧弱であったり成っていなかったりすることを意味しないのであって、事物の文学的検討や叙述には、夫でも結構事は足りる場合が多いだろう。だが吾々は、この観念を理論的に明らかにし、之を道徳理論に於ける一つの根本概念として取り出すことを必要とする。
文学(広く芸術に於ける精神)がモラル(この文学的道徳の観念)を追求するものだという事実は、文学が常に常識[#「常識」に傍点]に対する反逆[#「反逆」に傍点]を企てるものだという処に、一等よく見て取れるだろう。文学は大抵の場合常識に対立せしめられる。処でこの反文学的な常識とは、例の低俗な通俗常識のことに他ならず、それが又通俗常識的観念による所謂道徳のことに他ならぬ。かくて文学的道徳・モラルは結局通俗常識的道徳に対立しているわけなのだ。ではどういう風に之に対立するのかと云えば、要するに通俗道徳に対してその批判者[#「批判者」に傍点]として立ち現われるのが、モラルだということに他ならぬ。夫が通俗道徳を批判するものである限り、夫も亦一つの道徳でなくてはならぬ、モラルでなくてはならぬ。だが夫と同時に、夫はもはや通俗道徳という意味に於ては、道徳ではない。でモラルという観念自身が、所謂道徳なるものを解体する処のものを意味せねばならぬ。だが単に道徳を道徳でないものによって道徳でないものにまで解体して了うのでは、夫が科学的手続きによるのでない限り、道徳の単なる否定というものにしか過ぎない。それでは例の通俗常識による道徳という通俗観念さえが、事実上納得され得るようには克服出来まい。道徳を納得的に否定し得るものは、一種の道徳[#「一種の道徳」に傍点]の他にはあり得ない。モラルは少なくとも現在、事実上そういう一種の道徳の観念だ。
社会科学的な道徳観念も亦、道徳を解体し道徳を道徳の否定にまで導く過程に生じる処の、道徳観念であった。だが夫は道徳を本当に科学的に終焉せしめて了うものだ。之に反して道徳の文学的観念は、道徳を道徳として、モラルとして、云わば止揚し且高揚する処の観念に他ならない。ただ文学自身では、この観念が極めて曖昧で無限定なのだ。そこで今吾々は、之を理論的に表現しなければならぬというのである。
だが、或いはだから、文学的道徳の観念を吾々は無条件に信用してかかってはならないのである。それは誤謬へ導くかも知れない多くの諸規定を無定量に含んでいる、それがこの観念の理論的に曖昧である所以だ。吾々がこの観念[#「観念」に傍点]について、理論的な概念[#
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