「概念」に傍点]を造るためには、実はこの文学的道徳観念の特有な弱点から、まず注意して行かねばならない。
 一体現在の事実問題として見る時、文学的道徳観念であるこのモラルは、どういう内容を与えられているか。云うまでもなくパッションやペーソスから始めて一切の規定を含んではいるが、その骨組みは例えばまず幸福[#「幸福」に傍点]というものにあるように思われる。本来モラルは言葉通りに一切のものであり得る。実を云うと、吾々の日常生活が社会に於ける階級闘争の形を一つ一つ取らざるを得ないような時、モラルとは階級道徳のこと以外のものではあり得まい。そうでなければ吾々は満足[#「満足」に傍点]しないからだ。処がこの所謂「モラル」という言葉は、事実上必ずしもそういう現実内容[#「現実内容」に傍点]に即して用いられている言葉ではないのである。「モラル」という流行観念の実際のニュアンスは、もっと形式的[#「形式的」に傍点]な処にあり、又その形式そのものをその独自の内容として居坐らせたものに他ならない。階級闘争のモラルは、夫が階級社会の実践的活動分子たる人間に満足を与える限り、初めてモラルとなる。だからモラルは、その階級闘争の情熱や憎悪や意欲という内容にあるのではなくて、之が満足に帰するというその形式にあるのであり、そしてこの形式が満足という一般的な内容に直ったものがモラルの内容だ、ということになる。でモラルはそれ自身に固有な形式的内容[#「固有な形式的内容」に傍点]を有つ。夫が一般に満足ということで、やがてよく云われる所謂幸福[#「幸福」に傍点]というものが夫だ。
 モラルの内容(実はそれに固有な一般的内容)を幸福に求める文学者は、無論極めて多い。否殆んど総ての文学者はモラルの追求の名に於て幸福の探究を企てる。例えばA・ジードの自叙伝『一粒の麦もし死なずば』や『文学とモラル』などはこの意図をよく物語っているだろう。K・ヒルティの『幸福論』(岩波文庫訳)によると、「哲学的見地から或いは勝手に反対することも出来ようが、しかし人が、意識に目覚めた最初の時からその終りに至るまで、最も熱心に追求してやまないものは、実にただ幸福の感情である」というのだ。
 確かに道徳・倫理・モラルは、善だとか悪だとか、正しいとか不正だとかいうことよりも、幸福ということの内にあるだろう。ヘドニズムの疑うことの出来ない根拠は全くここにある。真に幸福について考えて見たことのない人間は、決して道徳を知った者ではないかも知れぬ。――だが理論的に忘れてならぬことは、この幸福なるものが、実はモラルの形式的[#「形式的」に傍点]な規定に過ぎなかったという点、或いはこの形式的規定がそのまま一転してモラルの一般的[#「一般的」に傍点]従って又抽象的[#「抽象的」に傍点]な云わば形式的内容[#「内容」に傍点]になったものに過ぎぬという点、なのだ。なる程、一切のものは幸福に帰趨するだろう、エピキュリアニズムは因よりストイシズムもアスケティシズムも、夫々一種の幸福感・満足に帰趨するだろう。併し逆に、幸福というもの自身からは単に幸福をしか導き出すことは出来ぬ。幸福からはモラルの本当の内容[#「本当の内容」に傍点]を導き出すわけには行かないのだ。もし幸福のモラルからコンミュニズムを導き出した文学者がいたとすれば、彼には一つの転向[#「転向」に傍点]が必要であったに相違ない。と云うのは、幸福のモラルからコンミュニズムを惹き出したと云うのは、実は方向を反対にしてコンミュニズムから幸福のモラルを惹き出したことに他ならない。
 幸福のモラルは、モラル自身の形式そのものを云い現わす固有な特別な一般的抽象的内容に他ならないが、併しそれであるが故に、このモラルは形式的なものであり、このモラルの観念は形式主義的な条件を免れ得ない。幸福の説は恰もそういう形式主義的なモラルの観念に基くものだ――形式主義とは形式が内容の「鍵」で「窮極の基礎」だと考えることだが、恰もヒルティなどは「幸福は実に我々のあらゆる思想の鍵である」とも云い、「幸福は、あらゆる学問・努力・あらゆる国家的及び教会的施設の窮極の基礎である」とも云っている(前掲書)。之は全くキリスト教徒の声だ。なる程社会変革の運動は大衆の幸福を目標としているには違いなかろう。だが大衆の幸福をそれ自身如何に捏ね回しても、神の国[#「神の国」に傍点]かユートピア[#「ユートピア」に傍点]以上のものは、決して出て来ないのだ。
 で幸福とはこうした形式主義的なモラルの内容だが、恐らくこの点が、実際に世間に行なわれている所謂「モラル」の特色を最もよく云い表わしているだろう。モラルは文学者の用語だが、文学者は之によって、極めて形式的なモラルを影像として受け取っているように思われる。と云うのはモラルとは何か身辺のアトモスフェヤとか、特定内容から切り離された抽象された生活感情とかいうものであって、生産機構に発して産業や経済生活や政治活動やを踏み分けて通った処の、社会そのものの脱汗の粒々たる結晶としての生活意識とは、おのずから別なのである。つまりモラルは多くの文学者にとっては、個人身辺のものであって決して社会的なものなどではない。
 吾々は、処で道徳に関する文学的観念たるモラルのこの観念から、こうした文学者的な皮相さを除り去らねばならぬ。もしそうしなければ、モラルは主観的道徳感情とか個人道徳とかいうものになって了って、例の倫理学が眼の前に置いて考えていたような道徳の、而もごく不体裁な模造品にすぎぬものとならざるを得まい。夫ならば社会科学によって、すでに解決と解消とを完了された処のものに過ぎない。今更モラルでもないわけである。

 で吾々にとってまず第一に必要なのは、モラルという文学的観念を、どうやったならば科学的[#「科学的」に傍点]な道徳(モラル)観念にまで、洗練出来るかに答えることだ。そのために社会科学的道徳観念とこの文学道徳観念との、相違点をもう少し考えて見なければならぬ。
 一般に道徳が社会意識と不離な関係にあるらしいことを、私はこの本の初めの方で述べた。道徳が社会の汗か脂のようなものだとも云った。従って道徳は常に社会的[#「社会的」に傍点]なのである。併し又本当に個人[#「個人」に傍点]が考えられていない処に道徳というものもあり得る筈はない。社会意識は個人が社会に対して持つ意識か、それでなければ社会という主体が持つと譬えられた意識のことだが、社会という主体が統一的な意識を有てるかのように仮定するマクドゥーガル的なGroup mindの観念も、社会に於ける個人が有つ個人的な意識の社会的総和という風に理解しない限り、心理学者のフィクションに過ぎぬものとなるだろう。社会意識たる道徳意識も、だからこうした個人意識としての道徳意識の総和であるか、それとも個人が社会に対して有つ道徳の自意識に他ならぬ。――いずれにしても道徳は、社会[#「社会」に傍点]と個人[#「個人」に傍点]との関係に於てしか成り立たないことを見るべきだ。
 社会科学的道徳観念の科学的高さをなす所以の一つは、道徳が社会と個人との関係に於て初めて成り立つものであって、単に個人自身の内で成り立ち得るものではないという、云われて見れば初めから当然至極なこの関係を、ハッキリ組織的に解明したことにあった。往々世間では、史的唯物論が客観的な社会機構だけしか問題にし得ないもので、個人にぞくする諸問題は之を忘れるか避けるかするのだ、という風に誤解しているが、この誤解は少なくとも史的唯物論による道徳理論を見るならば、氷解することだろうと思う。元来社会科学は個人を問題にしないどころではない。実は例えば、如何なる個人は如何なる社会条件の所産であるかを問題にすることこそ、社会科学の具体的な現実的な課題なのだ。なる程社会科学が与える諸々の公式は、一般的な通用性(尤も之は歴史的な適用条件を持っているのだが)を有っていればこそ公式である。併し又特殊の夫々の事情に向かって特殊的に適用されないような公式は、元来何等一般的な公式ではないのだ。公式はいつも特殊化[#「特殊化」に傍点]され得るものだし又特殊化されねばならぬ処のものだ。従って社会機構の一般的諸関係を云い表わす社会科学的公式は、当然個々夫々の特殊事情に相当する処の各個人[#「個人」に傍点]の場合々々について、特殊化され得るし又特殊化されねばならぬ。社会科学が個人を問題に出来ないという説は、何かの誤解だと云わねばなるまい。
 だから道徳が如何に個人のものであり個人を介してでなければ成り立たないにした処で、それを理由にして、道徳が社会科学的に分析出来ないものだなどと考えたり主張したりすることは、許されないわけで、そういう誹謗は偶々、個人主義的なブルジョア倫理学自身の自己弁解を物語る以外のものではないのである。道徳の個人的特色(階級道徳も亦この道徳の個人的特色の必然的な規定だ――なぜなら個人そのものが社会における個人でしかなかったから)を最もよく説明したものは、他ならぬ史的唯物論だったのだ。
 道徳は社会科学的観念によって、いつも個人化[#「個人化」に傍点]され得る。その意味でなら、客観的な道徳も常に主観化[#「主観化」に傍点]され得るし、客体的な道徳も必ず主体化され得る。――だが社会に対するこの個人、又或る意味で(後を見よ)客観乃至客体に対するこの主観乃至主体、とは何か。社会や客観乃至客体は、論理的には一つの普遍者[#「普遍者」に傍点]である。と云うのは、個人(或る意味では主観や主体も)の多数の複数を通じて共通に横たわる或るものだ。之に較べれば個人(或る意味では主観乃至主体)は、確かに論理的に特殊者[#「特殊者」に傍点]だ。個物は特殊者だ。処がこの個人なるものも実は、社会の普遍性とは異った併し一種の普遍性・一般性を持っていることを見落してはならぬ。「これ」とか「この」とか云っても、「あれ」も吾々がそこを注意すれば「これ」であり、「あの」も吾々がそこへ行けば「この」に他ならぬ。つまり「これ」ということ[#「こと」に傍点]と「これ」と云われるもの[#「もの」に傍点]との間には、一向必然的な結合はないのだ。吾々はバットを「これ」と指さしてもいいし、チェリーを「これ」と呼んでもいいわけだ。――尤も、もしもバットに霊あらば(あまり唯物論的な仮定ではないが)、彼は自分をしか「これ」と呼ぶことは出来ず、チェリーとチェリー氏はいつも「あれ」とか「かれ」とか呼ばれるに違いないが。でこの特殊性をもった個体は一般性[#「一般性」に傍点]を有っているものだ。
 だがこの一般的な個人(或る意味では主観や主体もそうだが)は、まだ決して「自分」(「私」「我」「自我」等々)ではない。と云うのは、ナポレオンという個人が個人的であり個性的であることは、カエサルという個人が個人的であり個性的であることと、共通なことである。無論二人の個性は別だが、歴史家は二人が夫々の異った個性の、有ち方までを異にしているとは考えない。そういう不公平な歴史家は少なくとも科学的な歴史家ではなくて、ナポレオン党員か何かだろう。処がナポレオン自身[#「自身」に傍点]は、自分がナポレオンであるという関係と、或る男がカエサルだという関係とを、同一共通なものとは考えない。もしそうでないと反対する読者がいるなら、その読者が偶々ナポレオンでないからに過ぎない。何人も「自分」の自分を他人の自分と取り換えることは出来ない。ここに古来人間が一日も忘れることのなかった「自分」というものの意味があるのである。この自分[#「自分」に傍点]はもはや決して個人[#「個人」に傍点]ではない。個人はなお一般的だ、従って「自分」こそ最後の特殊的[#「特殊的」に傍点]なものだ、ということとなる。――処でモラルはこの「自分」というものと深い関係があるだろう。

 問題はそこでまず、この自分なるものが社会科学でどう取り扱われ得るかである。自分というこのごく日常的な常識にぞくする観念を、下手に哲学的
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