之が総じてブルジョア社会特有な個人主義[#「個人主義」に傍点]のおかげであることは、改めて説明するまでもないことだ。だが之が神聖なるものの事実であったのだ。
私はこの卑小な道徳の観念を超えて、道徳に就いての、もっと生きたスケールの大きな観念を見ねばならぬ。それは今日の社会科学(特に史的唯物論=唯物史観)が約束する処のものである。
[#改頁]
第三章 道徳に関する社会科学的観念
すでに見たように、道徳というものが日常生活・日常常識にとってまず第一に意識される形は、一種の外部的な強制力としてであった。之は原始人に就いて最もよく見られる処だ。自分はその欲望、情操、理性、其の他に基いてある一定の自由を欲している、所が社会から来る外部的な抑圧がこの自由を抑圧している、と感じる。この感じの内に悪意は含まれていないにしろ、或いは寧ろ大抵の場合好意と得意とが含まれているにしろ、又はそういう好悪に全く無関心であるにしろ、この感じ自体がこの際の原始的な道徳観なのである。ここではまだ夫が善いことか悪いことかさえ考えられてはいない。なる程この一定の道徳的強制(道徳律)を破ることは、色々な意味で悪いこ
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