いるのだ。
 だがこのイデア論的倫理説は、一種貴族的な観念論(之は当時政治的には反動を意味した)に立脚したにも拘らず、それであるが故に却って今日の倫理学に較べて、すぐれた幾つかの点を有っている。この道徳理論は当時の(今日でもそうだが)常識にも拘らず、道徳をば専ら道徳律を中心として考えるのでなく、又徳目さえがそこでの最後の問題ではなかった。その善なるものが所謂善悪という便宜的な価値標尺の如きものでなかったことは、何べんも述べた処だ。
 道徳という観念をより近代的なものに近いものへと齎したのは、ストイック派やエピクロス派である。これはソクラテスと小ソクラテス派の忠実な伝統を追うものであって、道徳は個人の生活術[#「個人の生活術」に傍点]を意味することとなり、ここに云わば倫理学のアウタルキーが確立されたのである。と云うのは、道徳はこの倫理学によると、社会や家庭の問題とは全く無関係に、完全に個人の関心として、一つの小さな封鎖された纏りを持つ領域となる。独身のルンペン主義哲人で有名なキニック派のディオゲネスや、下ってネロの忠良な廷臣セネカ(ストイック派)などを思い起こせば、この点は明らかだろう。
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