ったのは、そのためである。
 善というものはイデア(之は決して近代的な意味での観念[#「観念」に傍点]のことではない)という存在として見る、この存在論的倫理説は、云うまでもなく古代的形態に於ける観念論の頂点をなしている。ここでは善は見ら[#「見ら」に傍点]れるもの(イデア)として観照の世界にぞくする。善が人間の実践行動に直接関係しているのは勿論だが、今の場合その実践なるものそのものが観照の対象でしかない。善は意志の目的物ではなくて寧ろ哲学的直観の対象である。善は一つのイデアとして、主観的なものではなくて寧ろ客観的なものだが、それだけに一向主体的なものにならぬ。ここにこの道徳観念の形式主義(形相主義から来る)と普遍主義と非歴史主義との一切が結果する(このイデア論はアリストテレスが克服しようとした処であるが、今の問題はイデアによって代表されるギリシア思想自身にあるのだ)。当時の実際的な道徳観念は、云うまでもなく奴隷所有者の支配的自由民のものだが、夫がプラトンやアリストテレスの社会理論の内に根深く食い込んでいるにも拘らず、善のイデアは特にプラトンに於てのように、そうしたものから全く超然として
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