区別しながら、なお結局に於て自分を個人と考えねばならなくした根本的要求は、自分を何か世界の説明原理[#「世界の説明原理」に傍点]としようとする企ての内に存する。個人を世界の説明原理としようとするのが典型的な観念論であるが、之に倣って「自分」なるものを世界の「創造者」という説明原理にしようとしたのが、シュティルナーによって典型的に云い表わされたエゴイズム(理論的又道徳的)なのだ。――だが「自分」とは実は、そういう世界の説明原理(創造者・元素・其の他)である或る[#「或る」に傍点]物ではなくて、単に世界を見るものであり之を写す(模写する)ものなのだ。「自分」は個人とは異って交換することの出来る物[#「物」に傍点]ではない。自分とは自分一身[#「自分一身」に傍点]だ。之は鏡面であって物ではない。
 社会を特殊化せば個人になる。ここまでは明らかに社会科学の領域だ。併しこの個人を如何に特殊化しても「自分」にはならぬ。一体もはや特殊化し得ない分割不可能であるということが個人乃至個体(In−Dividuum)の意味だったのだから、これは寧ろ当然だと云わねばならぬ。もし同じ[#「同じ」に傍点]特殊化の
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