ィルナーに限らず、彼の先輩たるフィヒテに就いても同様に困る点だ。
『ドイツ・イデオロギイ』(唯物論研究会訳)の大半をこの「聖マックス」・シュティルナーの批判に割いたマルクスは、処で彼をこう批評した。「若しも聖マックスが、種々な『事』及びこれ等の事の『所有主』、たとえば神・人類・真理をばもう少し詳しく観察していたならば、これ等の人格の主我主義的な行状に立脚せる主我主義も、これらの人格自身と全く同様に、仮構物であらざるを得ないという、反対の結論に到達する筈だったのだ」と(多少訳を変更)。――つまり「自分」の体系としての形而上学に立脚しようとするが故に、却って「自分」というものが個人という人格物に帰着して了うわけだ。
 シュティルナーの根本的なナンセンスは、彼が「自分」というものを正面へ持ち出したことではなくて、却ってこの自分を安易にも、結局に於ては個人人格というようなものだと想定し、そしてこの個人人格から歴史と社会とを体系づけようとした処の、観念論的な大風呂敷にあったのだ。彼の人間に関する理論が、機械的で非歴史的で意識主義的であるのは、全くここから来る。
 自分というものを個人(人間)から
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