ーが云っているのは、個人が凡てだというのではない、個人ではない[#「ない」に傍点]処の「自分」が凡てだというのだ。そう云われて見れば、この唯我独尊主義も、決して簡単な妄想ではなくて相当複雑な虚妄であることに、戒心しなければならないだろう。
処がシュティルナーの「自分」は「創造者的な虚無」だというのである。と云う意味は、自分が一切のものの創造者であり、世界はつまり自分の所産だというのである。そして自分は世界を創造するに際しても何ものにも負うのでなくて自分自身にしか負う処がない。だから「無からの創造」だというのである。人間の生涯とその歴史的発達は、この自分の創造物だというのだ。――だがこうなるとこの自分と人間(個人)とはどうして別なのだろうか。なる程人間(個人又はその集合としての人類)ならば、それが歴史を創ったということも何とか辛うじて説得出来るかも知れない。併し誰が一体、自分が古代から現代までの歴史を造ったと実感するものが、狂人でない限りあるだろうか。――自分なるものが個人や人間と別な範疇だという論理はよい、だがそうだからと云って、「自分」なるものの形而上学的体系は困る。之は独りシュテ
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