に解明しようとすると、忽ち札つきの観念論に陥らざるを得ない。事実之までの思い切った観念論(バークリやフィヒテの主観的観念論)は単に観念を馬鹿々々しく尊重したことがその動機なのではなくて、この「自分」なるものを観念のことだと思い誤ったり、又之を観念的に掴むことが相応わしいことだと思い込んだりしたことに由来する。「自分」は社会科学(つまり史的唯物論――唯物論)でどう取り扱われるか。
M・シュティルナーは何と云っても参照を免れまい。シュティルナーに云わせれば、「神と人類とは何物にも頓着しない、自分以外の何物にも。だから自分も同様に、自分のことを自分の上に限ろう。神と同じく他の凡てのものにとっては無である自分、自分の凡てである自分、唯一無二である自分の上に」(『唯一者とその所有』――岩波文庫訳)、である。「自分にとっては自分以上のものは何もない」のだ。自分だけが自分の唯一無二の関心事だ。――だがどうしてそんな馬鹿げたことが主張出来るのか。併しシュティルナーが、自分と云うものを人間[#「人間」に傍点]や人類[#「人類」に傍点]というものから区別しているという点を今忘れてはならない。シュティルナ
前へ
次へ
全153ページ中131ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング