科学が個人を問題に出来ないという説は、何かの誤解だと云わねばなるまい。
 だから道徳が如何に個人のものであり個人を介してでなければ成り立たないにした処で、それを理由にして、道徳が社会科学的に分析出来ないものだなどと考えたり主張したりすることは、許されないわけで、そういう誹謗は偶々、個人主義的なブルジョア倫理学自身の自己弁解を物語る以外のものではないのである。道徳の個人的特色(階級道徳も亦この道徳の個人的特色の必然的な規定だ――なぜなら個人そのものが社会における個人でしかなかったから)を最もよく説明したものは、他ならぬ史的唯物論だったのだ。
 道徳は社会科学的観念によって、いつも個人化[#「個人化」に傍点]され得る。その意味でなら、客観的な道徳も常に主観化[#「主観化」に傍点]され得るし、客体的な道徳も必ず主体化され得る。――だが社会に対するこの個人、又或る意味で(後を見よ)客観乃至客体に対するこの主観乃至主体、とは何か。社会や客観乃至客体は、論理的には一つの普遍者[#「普遍者」に傍点]である。と云うのは、個人(或る意味では主観や主体も)の多数の複数を通じて共通に横たわる或るものだ。之に
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