聞かされている処である。ヘーゲル体系の弱点は、その方法(弁証法)とそれの使用の客観的な必然性とに拘らず、一つの封鎖された閉じた体系を与え得ようと欲する処に存する。その一例はヘーゲルの国家の概念であって、当時の現実のプロイセン的国家の諸規定が、他ならぬ国家のイデー[#「イデー」に傍点]にされて了っているのも、体系が現実に終りに到着出来ると考えたその有限的な弁証法(有機体説的全体説)の形式のおかげだが、こうした有機体説的弁証法を採用させたのは又、彼の愛好した体系なるものの性質の欠点からだ。この観念論的体系[#「観念論的体系」に傍点]が、その弁証法という方法をも、観念的なものたらしめた。――云われているように、ヘーゲルの体系の客観的意図は(ヘーゲル自身の主観的意図はとに角として)、従来の観念論通り、単に世界を解釈することにあって、世界を変革することにはなかった。解釈のための体系としてなら、世界を理性の自己発展と見ることは、最も面倒がなく手際よく行くものに相違ない。
 でこの解釈の哲学[#「解釈の哲学」に傍点]の体系に立つと、社会的な諸世界も凡て法という性格を有ち、客観的精神という本質のものになる。だから、この際社会的な諸世界は道徳に解消されると云っても、説き過ぎではあるまい。――ヘーゲル哲学の弱点は、その自然哲学に関する騒然たる批難嘲笑を除けば(これでもエンゲルスが自然弁証法を惹き出す歴史的根拠となったのだが)、正にこの「法の哲学」の内になければならぬ。即ち、丁度吾々が問題にしている道徳理論をめぐって、ヘーゲルの弱点と、それの批判克服とが、一般に必然性を有って来るわけだ。吾々の議論にとっては全く都合のよい事情である。
 ヘーゲルの「法の哲学」を系統的に批判しようとした者は他ならぬ初期のK・マルクスであった。『ヘーゲル法哲学の批判序説』(一八四四年)と『ヘーゲル国法の批判』(一八四三年)とが夫であるが、特に未完成な後者の方は、ヘーゲル『法の哲学の綱要』の二六一項から三一三項までを、逐条的に要点に就いて批判したもので、マルクスがヘーゲルの逆立ちを如何に足で立ち直らせようと試みたかの、よい見本と云っていい。当時のマルクスはまだマルクス主義者になり切っていないと考えられる時期の人だが、併しもはや三四年以前のマルクスのような一人のヘーゲル学徒にすぎぬ者でないことは、勿論だ。社会科学が法の哲学から分離し、従って倫理学の代りに社会科学的道徳理論が発生する一応の基礎は、この時出来ていたと見るべきだろう。社会科学的な道徳理論の原則乃至方法である史的唯物論は、『ドイツ・イデオロギー』を以てその基本的な労作とする。――だが実は、社会科学乃至マルクス主義による道徳問題プロパーに関する文献は、極めて乏しいことを告白せねばならぬ。
 E・A・プレオブラジェンスキーはパンフレット『道徳及び階級規範について』(希望閣訳版)で云っている。「道徳問題に関するマルクス主義文献は――云うに足りない。マルクス及びエンゲルスの著書及び手記の或る個所、並びに史的唯物論の理論に関するマルクス主義文献に於ける道徳方面について軽い論述の他には、K・カウツキーの有名なパンフレット『倫理と唯物史観』、G・V・プレハーノフの著作の或る部分、特にフランス唯物論者に関する部分、A・ボグダーノフの著作の或る部分、N・ブハーリンの著書『史的唯物論の理論』の或る頁、マルクス主義的見地からは完全に良いとは云われないのが、J・ディーツゲンの或る著作、を示すことが出来る。そしてこれで全部であるように思われる」云々。――無論広く道徳問題に直接関係のある特殊諸問題(例えば性問題とか文学と政治との関係の問題とか)については、論述は限りなくなるのだし、又一応の道徳理論の教程にも存するのだが、併し結局プレオブラジェンスキーのこの小さなパンフレットが最も纏ったもののように思われる。

 ヘーゲルは法乃至道徳を、自由なる絶対精神の発展段階の一つと見た。だが之は決して道徳についての説明[#「説明」に傍点]ではない。単に現前の道徳という諸事象の持つ形態を明らかにし、それが有つ一種の意義・意味を解釈したに過ぎない。ただの道徳意識や何かでなく、家族とかブルジョア社会とか国家とかいう、道徳的「実体」を見出したことは、確かにヘーゲルの卓見だが、処が折角のこの道徳的実体[#「実体」に傍点]も、絶対精神の現われだというのでは、之の分析を通じて夫が含む現実の諸問題を処理するのに、何の役にも立つまい。なる程こうした家族其の他の客観的な道徳的実体が人間の歴史にとって極めて重大な実質をなしているということは一つの事実だが、そういう事実を、歴史的に科学的・因果的・分析を用いて説明することと、この事実が単に世界史の発展の一段階だという意味を持って
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