にも拘らず、他方之等一切の諸領域の一つ一つに接着していることをも見落すことが出来ないのである。そういう関係があればこそ、社会そのものが道徳的本質に還元されたり、政治や法律が単なる道徳に帰着されたりするということも初めて可能だったわけで、社会主義が倫理学に包括されて了うという誤りも、決して理由なしには発生しなかったのである。でもしそうだとすると、道徳はもはや単なる一領域であるに止まらず、恐らく一領域であるにも拘らず他領域をも蔽うか又は之に付随するかする処の、或るものだと云わねばならぬ。之をなお或る種の領域だと云うことは自由だが、それはもはや之まで云って来た意味での一領域ではない。
 だから、例はやや飛躍するが、プラトンが善のイデアを最高のイデア、諸イデアのピラミットの頂点と考えたことには意味があったわけで、善のイデアはもはや他の諸イデアと並列したものではなく、一段と高いオーダーにぞくすることを意味するのだと解釈すべきだとも云われている。だがそうだからと云って誰もプラトンを汎道徳主義者や倫理主義者に数えようとはしないだろう。――つまり凡てのものを道徳に還元しようという各種の汎道徳主義乃至倫理主義なるものは、実は凡ての他領域の事物を、道徳という一つの領域[#「領域」に傍点]に還元しようとするからこそ誤っているのであって、之は、道徳というものをどこまでも一領域にすぎぬものと仮定しておいた上で、さてこの特別な一領域を無遠慮にも世界の全領域に押し拡げよう、という仕組みに他ならない。常識はいつでもこの種の手口を便宜に思うもので、教育学者や教育家は、教育というものを何か自分達の専門[#「専門」に傍点]の領域だと仮定した上で、この専門領域の内に世の中の一切のものを抛り込んで了おうとする。徳育や修身の専門家(?)が養成されるのも、日本のこの教育専門家の領域[#「領域」に傍点]からであるが、そうした道徳の専門家の考えは、道徳が生活の特別な一領域であり従って[#「従って」に傍点]又生活の全領域を含む領域だという、道徳領域説の常識が、漫画になったものだ。
 道徳が生活場面の一領域の意味に尽きると考えることは、道徳に就いての常識的観念の第一の不備な点であった。之によるとスッカリ道徳にぞくするものと全く道徳にぞくさないものとが、ハッキリ区別されるわけだが、併し之ほど都合の悪い結果を伴うものはある
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