な狭い領域にとじこめられた観念としてではなく、之を最も広範な含蓄を持った観念にまで深化するもののように見えるかも知れない。だが実は、これこそ何よりも、道徳の独立領域[#「独立領域」に傍点]という常識観念の誇張の結果そのものなのだ。
 カントは経験界とは全く独立な之とは全く絶縁した本体界を、英知界を、道徳の世界・道徳の領域と考えた。之は道徳という領域が何かハッキリと決って他の領域から機械的に限界されて横たわっているという一つの根本的な常識を、批判体系の根柢として採用したことであって、シュタウディンガーやM・アードラー、フォルレンダー達のカント社会主義者は、多かれ少なかれ、この常識のこうした科学的合法化の後継者に他ならなかったのである(この点に関しては米田庄太郎『輓近社会思想の研究』上巻が参考となる)。
 道徳の領域が何かハッキリしているように想定されるのは、実は道徳に関する観念自身が機械的に固定しているからなので、道徳という観念と他領域の観念との間に機械的に限界を引き得るとか、道徳という観念は固定不動なものだとか、考えることに由来する。そしてこういう考え方は要するに道徳の内容そのものが固定不動なものだという考え方から脈を引いているのである。――なる程道徳と名づけられる一つの領域が存することを、吾々は何としても疑うことは出来ないだろう。だが夫は何も道徳という独立な世界がどこかでハッキリとした柵をめぐらしているということにはならぬ。問題はいつも道徳の領域と他領域との交流[#「交流」に傍点]であり而もその本質的な交流なのだ。道徳と政治との交流はシュタウディンガーも触れているが、卑俗な形では現に政治の倫理化とか政教一致とかなって現われている。特に道徳と法律との交流は著しいので、ヘーゲルなどは両者を「抽象法」の名の下に一緒に取り扱っていると云ってもよい。アメリカの法律家ロスコー・パウンドは実際家の見地から、この交流に就いて興味深い分析を加えている(『法と道徳』高柳・岩田訳)。
 だがそれより以上に大切なことは、一体道徳なるものが、一般に一つの領域だ(その限界は機械的に与えるべからざるものでその内容も固定不変なものではないとして)と云って片づけられ得るかどうかなのだ。と云うのは、道徳は社会関係・政治関係・法律体系・其の他其の他と並列[#「並列」に傍点]する一領域であると考えられる
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