まい。芸術は芸術であって道徳とは別だという。それでは芸術に於ける道徳=モラル程、無意味なものはなくなるわけだ。内容は道徳でも形式は道徳ではなくて芸術だと云うのだろうか。だが道徳の形式とは何だろう。それはもはや常識が答え得る問いではないかも知れないが、自由意志の自律に従うとか、目的意識的行為の形を取ったとかいうことだろう。処が自律に従わなかった場合も決して道徳の領域外にあったのではなくて、却って反道徳・不道徳という刻印を捺されるために、あくまで道徳の領域の内になければならぬ。実践的行為の形を取るということが道徳の形式でないことは、芸術的創作だって実践的行為だし、単に善いか悪いか何かを考えただけでも立派に道徳的な問題にぞくする、そういうことを考えて見れば判ることだ。――道徳なるものは、だから生活の一切の領域に、或る仕方に於て着き得るのだ。どういう権利でどういう仕方で着くかは、後に見ようと思うが、とに角その意味に於て、道徳とは生活意識そのものを意味するのだと、仮に云っておくこととしよう。念のため断わっておくが、道徳は確かに一応、常識がそう想定している通り、生活の一領域のことなのだ。にも拘らず、それに尽きることなく[#「それに尽きることなく」に傍点]、根本的には生活意識そのものを意味するという含蓄を有つものだ、と云うのである。
常識による道徳の考え方の第二の特色は、道徳を善価値[#「善価値」に傍点]だと考えて片づけることだ。という意味は、道徳とは道徳的なこと[#「道徳的なこと」に傍点]であり善であることだ、というのである。尤もこの常識は少し常識的に反省して見ても可なり動揺せざるを得ないもので、もし道徳ということが善であるとしたら、悪は道徳の外に逸して了わざるを得ないだろう。それから、もし仮に悪をも道徳に数えるならば善と悪という道徳的価値の対立が理解出来なくなる、というわけだ。
このディレンマに類する関係は確かに、道徳を例の仕方に従って領域的に考える処から生じる。道徳という領域を善であることの領域に限定するから、悪なる領域をも含む筈の道徳領域が説明出来なくなるのである。善悪という(仮にそういう常識的用語を借りるとして)道徳的価値対立[#「価値対立」に傍点]の関係をば、なお領域的に考えることから起きる困難なのだ。
併しそうだからと云って、道徳という領域が現に存するという
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