で、明らかにこの点で従来のブルジョア観念論倫理学の代用物としての機能を有つ、夫が改めて今時、倫理学と見立てられるのは尤もだと云わねばなるまい。――倫理思想を歴史的[#「歴史的」に傍点]に導いて来なければならぬと云って、東洋倫理や日本倫理学を説く者が、今日の国粋反動復古時代に多かりそうなことは、誰しも思い付くことだ。西晋一郎博士によれば、「東洋倫理」は科学や学問ではなくて教え[#「教え」に傍点]であり教学[#「教学」に傍点]であるという。この教学主義の体系が今日の日本に於ける典型的な半封建的ファシズム・イデオロギーの帰着点であり、特色ある観念論組織の尤なるものであることは論外としても、この種の歴史的(?)な倫理学が、実は何等の歴史学的認識に立つものでもないことは、一目瞭然たるものであろう。古代支那の習俗と支那訳印度仏教教理との結合が、二十世紀の資本主義強国日本の生活意識だというのであるから(其の他、日本の師範学校教師式倫理学の大群に就いては、ここに語る必要はあるまい)。
 さて、道徳に関する倫理学的観念、特に又ブルジョア観念論的ブルジョア倫理学から眺められた道徳観念、その特色ある典型を私は見たのであるが、この倫理学なるものが如何に独立独歩の専門的学問であり、その根本問題(自由とか人格とか理想とか)が如何に倫理学にだけ特有なものであったとしても、結局それによって生じる道徳なるものの観念は、今日のブルジョア常識による道徳観念の、埒外へ出るものではない。道徳は非歴史的で超階級的で、普遍的で形式的であり、真に社会的な何ものでもない。在るものは個人主義道徳(個人道徳)か、個人主義道徳の単なる社会的拡大でしかない(R・ナトルプの「社会理想主義」の如きが後者だ)。このおかげで道徳は、今日の観念論の権威と神秘との聖殿に他ならぬものとなっている。何か倫理学的な独立封鎖領域があって、凡ての社会理論はこの聖地を訪れることによって初めて人間的価値を受け取る。そして而もその際、道徳とは、多くの場合(一二の例外は別として)、道徳律や修身的徳目のことでしかなく、善悪の標準のことでしかなかったのだ。
 倫理学はこのようにして、道徳という常識観念をただ哲学的に反覆するものであるにすぎない。道徳的常識の批判どころではない所以である。――道徳は倫理学によって、全く卑俗な矮小な憐むべき無力なガラクタとなる。
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