之が総じてブルジョア社会特有な個人主義[#「個人主義」に傍点]のおかげであることは、改めて説明するまでもないことだ。だが之が神聖なるものの事実であったのだ。
 私はこの卑小な道徳の観念を超えて、道徳に就いての、もっと生きたスケールの大きな観念を見ねばならぬ。それは今日の社会科学(特に史的唯物論=唯物史観)が約束する処のものである。
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 第三章 道徳に関する社会科学的観念

 すでに見たように、道徳というものが日常生活・日常常識にとってまず第一に意識される形は、一種の外部的な強制力としてであった。之は原始人に就いて最もよく見られる処だ。自分はその欲望、情操、理性、其の他に基いてある一定の自由を欲している、所が社会から来る外部的な抑圧がこの自由を抑圧している、と感じる。この感じの内に悪意は含まれていないにしろ、或いは寧ろ大抵の場合好意と得意とが含まれているにしろ、又はそういう好悪に全く無関心であるにしろ、この感じ自体がこの際の原始的な道徳観なのである。ここではまだ夫が善いことか悪いことかさえ考えられてはいない。なる程この一定の道徳的強制(道徳律)を破ることは、色々な意味で悪いことだと解せられる。夫は自分や自分が属する部族氏族又家族に、ある一定の不幸を齎すかも知れない、神やスピリットは怒るかも知れない、からだ。併しそれだからと云って別に、この強制そのものがそれ自身に善なのだというような、合理的な理由による価値評価があるわけではない。だがそれにも拘らず之は立派に道徳――原始的な――なのである。でもし、原始社会を専らこの社会的強制という一フェースからだけ考察するならば、原始社会の機構は道徳的で又宗教的なものだということにもなるだろう(E・デュルケム『宗教生活の原始的諸形態――オーストラリアのトーテム組織』――邦訳あり――参照)。
 この原始的な道徳観念は実はやがて、現代人が道徳に就いてもつ最も原始的な観念でもあったのである。処でここに注意しておかなくてはならぬ点は、この道徳がこの際(夫が原始宗教の形をとる場合でもよい)、他ならぬ社会的[#「社会的」に傍点]強制だったという点である。道徳はここでは全く社会的[#「社会的」に傍点]なものと考えられているのである。処が道徳に就いての観念がもう少し進歩すると(そしてこの進歩は実に社会そのものの進歩の結果に相応するものだが)
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