ロギーを代表する処の有力な合言葉である。道徳の問題を我[#「我」に傍点]へまで持って行くことはそれ自身意味のあることだ。併しこのフィヒテの我たるものが、極度に独立した独身の自発性を有ったもので、一切の世界がこの自我からの発展だというのである。我はフィヒテにとっては、ドイツ哲学的主観的観念論のパンドーラの箱に他ならない。而もこの我がフィヒテの倫理学の枢軸だったのだった。
フィヒテの哲学及び倫理説が、カント哲学の体系的発展(実践理性によって理論理性を統一しようという)であったことは、云うまでもない。フィヒテに次ぐドイツ観念論者はシェリングであるが、晩年のシェリングはヘーゲルとの論争に沿って、自由意志論の展開を試みた。だが夫は極めて宗教的哲学思索であって、もはや道徳に関する倫理学的な常識観念の他へ出て了っている。――でつまり近代ブルジョア倫理学の内、道徳に関する倫理学的問題・倫理学的根本概念、を最も積極的に展開するものは、カント(乃至フィヒテ)であったということになる。現代の群小諸倫理学は、多少ともこの影響に立たないものはない(T・リップス其の他)。
だが最後に、ごく近代的な倫理学の一傾向として、生命[#「生命」に傍点]の倫理学を数えておかねばならぬ。その一つはダーヴィン主義的倫理学であり(カウツキー前掲書参照)、その二つは例えばギュイヨーの夫だ(「義務も制裁もなき道徳の考察」其の他)。形式主義的倫理学に了る道徳観念の代りに、生命内容による闘争や生活意識の高揚やを導き入れたことがその特色であるが(特にギュイヨーの如きは道徳を道徳律中心主義的な又善悪対立主義的な観念から解放した)、道徳の歴史的発展[#「歴史的発展」に傍点]に就いての積極的な体系は全く之を欠いている。之は、この種の「生」の倫理学が依然として形式主義的倫理学と共に分つ宿命なのである。之はだから実は本当に内容的な[#「内容的な」に傍点]倫理学ではあり得ないわけだ。この点現象学的[#「現象学的」に傍点]倫理学其の他のもの(M・シェーラーの如き)になれば、もっと明らかだろう。
極めて最近では、倫理学を人間学乃至「人間の学」と見做すことも行なわれるが(例えば和辻哲郎博士)、こうした人間学[#「人間学」に傍点]は要するに社会を倫理[#「倫理」に傍点]に解消する代りに、之を人間[#「人間」に傍点]に解消するためのもの
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