人格は経験的には何であろうと倫理的にはそういう目的[#「目的」に傍点]であるというのだ(カントは経験的性格と英知的性格とを対立させる)。
 かくて倫理学とは、自由[#「自由」に傍点]や人格[#「人格」に傍点]やを、そしてこの根本概念に基いて道徳律や善悪の標準やを、研究する処の、一つの独立な封鎖された学問のこととなる。道徳律や善悪標準の問題はブルジョア通俗常識の問題でしかない、だが之を倫理学という専門的な学問は、自由や人格という範疇の検討を以て、裏づけるというのだ。――処がその裏づけの結果は倫理学に一種のブルジョア的光栄を齎すものだ。なぜなら、一切の人間関係・社会関係は、之によって、人格[#「人格」に傍点]の結合や「目的の王国」や理想[#「理想」に傍点]の体系界というような根本的意義を与えられることになるので、つまりこのブルジョア観念論的倫理学は、一切の社会理論の根柢をなすものだということになるのである。観念論は一般にだから、この倫理学を利用さえすれば仕事は極めて簡単となる。
 自由や理想や人格は、今日の道徳常識では寧ろ平凡な観念になっていると云っていいだろう(自由に就いてはヴィンデルバント『意志の自由』――戸坂訳が参考になろう)。世間の人達が唯物論に反対するために考えつく根拠も、唯物論が之等の問題を(この正に倫理学的な道徳の問題を)、解こうとしないという論拠である。この批難に意味のないことは、いずれ明らかになることだが、併しこの種の倫理学的範疇にもう一つ「我」というカテゴリーをつけ加えたフィヒテのことを忘れてはならぬ。フィヒテはその純粋我[#「純粋我」に傍点]なるものの存在の仕方を論じることによって、行・実践[#「行・実践」の「・」を除く部分に傍点]なる倫理学的規定を強調するに至った。之は「我」という倫理的主体にとって必然な倫理学的規定だ。処が之は恰も極めて倫理学的な規定であることを見落してはならぬ。なぜというに、ここで行なう行とか実践とかは、何等人間的活動としての産業や政治活動を意味するのではなくて、単に自覚的に考えたり身体を動かしたりするということにすぎないからだ。何でも自覚的にやりさえすれば夫が実践だというわけだ。――だがそれにも拘らず「我」(之は必ずしも社会に対する個人[#「個人」に傍点]というだけのものではないが)は、人格という観念と共にブルジョア・イデオ
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