である。と云うのは、倫理学の内に実質的内容を入れて考えるとすれば、他領域との関係が這入って来なくてはならなくなるし、倫理学だけに固有で他の学問では取り扱えないような問題がいくつか見出されなければ、倫理学という特別な専門領域は無用になるだろうからだ。
 カントの倫理学に於ける形式主義は有名であるが、之はブルジョア倫理学にとって決してただの偶然ではない。ブルジョア倫理学が倫理学という固有領域を確保するためには絶対に夫が必要だったのだ。まず経験的因果の連鎖を取り除き、次に人間的欲望の性向(傾向)を取り除き、それから道徳律=根本命題の特殊な中味を取り除く。かくて倫理学は極めて貧弱なものとなるように見えるのだが、実は却って之によって、倫理学という特殊領域が、いつでもどこにでも口を容れることが出来るような特権を獲得するのである。場所・歴史的時代・社会階級などとは全く無関係に、この倫理理論は通用出来るわけだし、又如何なる社会現象の根柢としても、この形式的な倫理学は、形式的であるが故に必ず想定されて構わぬものとなる。社会が倫理的[#「倫理的」に傍点]に見られるためには、即ち、社会が観念論的[#「観念論的」に傍点]に特徴づけられるためには、倫理学は形式主義を取らねばならぬわけだ。であるからK・カウツキーが近代のブルジョア哲学にぞくする倫理学の中から、特にカントを長々と取り出して、専らその形式的普遍主義を指摘したのは、当っているだろう(カウツキー『倫理学と唯物史観』はマルクス主義=唯物論的文献に於ける唯一のやや系統的な道徳論だ)。
 併しいつでもどこにでも口を容れることが出来るためには、倫理学は自分でなければ取り扱えない諸問題、而も一切の他領域に於て根本的な役割を有つだろう諸問題、を有っていなくてはならぬ。この問題を掘り下げた者が、カントであった。自律・自由・人格・性格[#「自律・自由・人格・性格」の「・」を除く部分に傍点]などの根本概念が之だ。意志の自由の問題はすでにストイック学派にも見られるが、最も深刻な意義のものはアウグスティヌスの神学的観念による夫であった。カントは之を人間理性の自律の内に発見したのである。この自律による自由の主体が人格であり、人格の特色をなすものが性格だ。道徳乃至倫理とは要するに、この人格を以て、手段ではなくてそれ自身目的であるように、行動することに他ならぬ。
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