自然科学的な認識を齎す。之以外に正当に経験とか認識とか呼ばれるべきものはない。つまりこのような現象界に就いてしか、吾々は経験や認識を有てないわけなのである。現象界の背景にあるかのように考えられる本体界(物そのものの世界)は理論理性の対象ではあり得ない。之を無理に理論理性の対象としようとすると、二律背反というような困難が発生するのだ、と彼は云う。処でこの本体界(ノウメナ)に這入り得るものは、理論理性ではなしに正に実践理性[#「実践理性」に傍点]なのである。この実践理性の世界が道徳界に他ならない。
 なる程この道徳界は経験界(自然界)と全く無関係なものとは云えない。事実道徳界は経験的現象界を通じて見出される他はないだろう。人間は道徳界にぞくするものとして自由[#「自由」に傍点]である、だがこの自由も因果律に従って行動する経験的な人間自身が持つ処のものだ。で、二つの世界は無論無関係ではない、ただ全くその世界秩序が別なのだ、と考えられている。――だがこの全く別な秩序界の間の、体系的な関係は何か。両者が無関係でなくどこかに接触点があるということと、この接触が体系的に明らかであるということとは別だ。この意味で道徳界と経験(自然)界、倫理学の領域と経験科学的認識の領域とは、どう関係するか。この問題は当然カント哲学全般の体系的な構造が何であるかを尋ねることだ。処がカント自身によっては、実はこの関係が殆んど全く有機的に解かれていないのである。なる程例の『判断力批判』は理論理性と実践理性との総合を問題にしているように見える。だが実は、この第三批判が丁度第一批判と第二批判との中間に位する問題[#「位する問題」に傍点]を取り扱っているというまでで、この問題自身が両者の総合や結合を意味するというわけではない。この意味からいうと、カントの批判哲学の「体系」は彼自身の手によっては与えられていなかったと云わねばならぬ(カント哲学の体系づけを試みた良書としては田辺元『カントの目的論』がある)。
 こうしてカントの倫理学は、認識理論や芸術理論から殆んど全く独立な領域として現われる。その結果は而も社会・国家・政治・法律からさえ、独立した一つの封鎖領域なのである。――処でこの関係は二つの結果を必然にする。一つは倫理学の形式化[#「形式化」に傍点]であり、一つは倫理学の固有問題[#「固有問題」に傍点]の設定
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