のである。こういう文学的表象の幽霊か漫画かのおかげで、その際成り立つモラルも幽霊か漫画のようなモラルとなる。而もそういうモラルに限って、社会的には無知な反動的勢力として凡そ社会のモラルを蹂躙するものだが。そしてその際「自分」や自我は、極めて皮相な思い上った又は卑屈な自意識となって了うのだ。
真に文学的なモラルは、科学的概念による認識から、特に社会科学的認識から、まず第一に出発しなければならない。この認識を自分の一身上の問題にまで飛躍させ得たならば、その時はモラルが見出された時だ。逆に初めから文学的モラルから出発するなら、遂に何等の科学的認識へも行きつくべき方法を見出すことは出来まい。そのモラルは自慰的なものとならざるを得ない。そしてこの自慰的環境から脱出するには、もはや文学的モラルでは間に合わないだろう。――例えば階級対立が社会そのものの一切の本質的な規定を決定しているこの社会に於て、階級道徳を抜きにした文学的モラルなどは、本当は想像も出来ない代物だろう。社会のこの歴史的なリアリティーのあくどさや強大さに心を動かさぬということは、モラルのないことの証拠になりはしないか。――「自分」を発見するということは、そんなに素手で方法なしに出来るものではない。そしてその方法は社会科学的認識の淵をばモラルにまで飛躍するという機構であり手続きであるのだ。之を抜きにして見出された自己などは、誠に賤しいものだ。
文学とモラルとのこの結びつきを、特別な形で示しているものは、フランスの文学的伝統の一つであるモラリスト[#「モラリスト」に傍点]たちの立場であろう。モラルという文学的な道徳の観念や言葉も、実はこのモラリストのものであったのだ。道徳の倫理学的観念が初めイギリス的乃至ドイツ的であったに対して、モラルという文学的観念は主としてフランスのものだ。処でモラリストの特色の一つが、矢張り「自分」を探究することにあったのを忘れることは出来ない。――E・ブリュンティエール(之はレーニンによると済度すべからざる反動家だが)は、モンテーニュの『エッセー』に就いて言っている、「それは、人が自己を描こうと企てた最初の書物である。自己を並々の人間の一例として考察しつつ、その自己の中に掴みえた発見を以て人類の博物誌を豊富にしようと企てた最初の書物である」(『仏蘭西文学史序説』岩波文庫訳に基く)。モンテ
前へ
次へ
全77ページ中74ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング