ーニュは云わばモラリストの父だが、夫が自分を描こうとした最初の人だというわけである。
 処がこの自分・自己とはモンテーニュでは何か。彼の『エッセー』は云っている、「各人は自己の前方を見る。私は私の内部を見る。私はただ私に用があるだけだ。私は私を考察し、私を検査し、私を思料する。……私は常に己れの内を省る」云々(ブリュンティエール前掲書参照)。――処でこの言葉だけを取って見ると、このルネサンスのフランスの貴族文学者は、まるで十九世紀の「ドイツの小市民」の、あのシュティルナーそっくりではないか。ただその自己がもっと文化的に教養が高かったというまでだ。とに角ここでいう自分とは、内部のことだ。自分を単に内部として感じることは、自分を「自分」としてではなしに人間として感じることだ(フランスにはメヌ・ド・ビランの『内部的人間学』なるものがある)。つまり夫は、欲すると否とに関係なく、自分を自分としてではなしに、例の個人という物体として見ることに帰着せざるを得ないだろう。――かくてモラリストの立場は、所謂人間学に[#底本では「間学に」に傍点をしているが、「人間学」あるいは「人間学に」に傍点すべきであろうと思われる]甚だ近いと云わねばならぬ。実際また人間学の多くの型は、モラリストの哲学から生じたものであった。パスカル(『パンセ』)やラ・ロシュフコー(『道徳的省察』――『箴言録』)を見れば、この(内部的)人間学が何であるかは容易に判る。そこでは自分は、人間の名に於て、社会的認識とは殆んど全く独立に、探究されている。之に較べれば、ラ・ブリュイエール(『性格』)やモンテーニュ自身は、実はもう少し社会的関心をもった「自分」であったかも知れない。
 だがそれにも拘らず、モラリストは、文学とモラルとの必然的な結合を、その意味で、道徳に関する文学的観念の一つの典型を、思想史の内に印象づけた。その歴史的意義は之を尊重し又利用すべきだろう。――もし多少の歴史的語弊を忍ぶとすれば、道徳に関する文学的観念は、正にこのモラリスト的な[#「モラリスト的な」に傍点]道徳観念だと云っていいかも知れぬ。ただ吾々に必要なのは、之が科学的認識、特に社会科学的認識を踏み渡った上での、道徳・モラルでなければならぬという点だったのである。

 最後に科学と文学とを図式的に対比させることによって、文学的観念による道徳なるものの
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