の一身上の問題を単に私事として顧みずにおくことは出来ない。モラルはこうしたものだと云うのである。――科学的概念が文学的表象にまで拡大飛躍することは、他でもないので、この科学的概念がモーラライズされ道徳化されヒューマナイズされることだ。この概念が一身化され[#「一身化され」に傍点]自分というものの身につき[#「身につき」に傍点]、感能化され感覚化されることだ。今や[#「今や」に傍点]、自分=モラル=文学[#「自分=モラル=文学」の「=」を除く部分に傍点]は一続きの観念なのである。社会の問題が身についた形で提出され、自分一身上の独特な形態として解決されねばならぬということが、文学的モラルを社会科学的理論から区別する処のものだ。
処で考えなければならないのは、すでに述べた文学的モラルのあの抽象性(幸福の如き)に就いてである。というのは、道徳に関する文学的観念としてのモラルは、事実の問題として見る時、文学者が有たねばならぬ社会科学的認識とは、殆んど全く無関係[#「無関係」に傍点]な場合が普通なのである。吾々はモラルと社会科学的認識とを区別はしたが、その区別の根拠は実は寧ろ両者の橋渡し[#「橋渡し」に傍点]の説明の上に立ってのことだった。科学的概念による社会科学的認識と、文学的表象による文学的認識との間に、一定の合理的な関係を設定したればこそ、科学的認識と文学との間の区別も出て来たわけであった。処が多くの文学的モラルは、社会科学的認識と関係なしに、何か自分だけで纏まり得たようなモラルとなっている。そういう独自に自分だけで結末のつくモラルの内容は、精々かの幸福のようなものだったろう。そしてそういう超社会科学的幸福は、事実上は、独善的な逃避的な貧弱な幸福に堕す他はあるまい。之は富まずして淫するモラルである。
こうした独善的モラルの観念を私は、文学主義[#「文学主義」に傍点]的なものと呼ぶことが出来ると思う。文学的表象はその現実的肉体として、社会科学的概念をその核心に持っていなければならなかった。処がこの科学的核心がない時には、文学的表象は自分自身で勝手な核心を――再び全く文学的にすぎぬ核心を――造り出す。そうやって文学的表象をそのまま文学的な概念[#「文学的な概念」に傍点](之は何と矛盾した表現だ!)にして了う。要するに科学的概念を排撃して文学的概念を、手近かににわか造りする
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