誇張力とかアクセント機能とかだ。
 こうして大体象徴的な性質を有たされた限りの科学的概念は、もはや之までの科学的概念ではなくて、文学的表象・文学的影像[#「文学的表象・文学的影像」の「・」を除く部分に傍点]である。象徴や空想や誇張其の他は、そうしたニュアンスやアクセントは、正に文学的な影像と観念との、特色ではないか。――この間の消息の内に、一般に、科学と文学(独り文芸に限らず広く芸術一般に於ける精神・イデーでよい)との論理的連関が設定される。そして今この科学的概念が社会科学乃至史的唯物論のものだとすれば、この文学的表象が持つ象徴や空想や誇張その他の、この非存在的[#「非存在的」に傍点]な機能が、自分[#「自分」に傍点]というものを個人[#「個人」に傍点]から区別する例のギャップを埋めるものに他ならぬ。個人とは社会科学的概念だ。之は史的唯物論によって片づく。之に反して「自分」とは、文学的表象だ。之は一切の文学的又実に道徳的なニュアンスとフレクシビリティーとを有っているだろう。個人に関する体系は立派に社会科学という科学になる。だが自分に就いての体系は、文学にはなっても科学的――実証的・技術的――理論とはならぬ。ニーチェやシュティルナーなどの自我思想が文学的特色を有つのは、広義に於けるそのスタイルの問題には止まらない。

 さて私はどうやら道徳・モラルの問題に帰ることが出来るようだ。以上に述べた科学的概念と文学的影像との関係、科学と文学との関係、の内に、モラル(文学的観念による道徳)なるものが横たわるだろうからだ。
 モラルとは自分一身上の問題であった。尤も之は何も個人道徳[#「個人道徳」に傍点]を意味するのでもないし、又道徳が個人的なものだというのでもない。個人が自分[#「自分」に傍点]と別だということは既に述べた処だ。寧ろモラルは常に社会的モラルだ。社会機構の内に生活する一人の個人が、単に個人であるだけでなく正に「自分」だということによって、この社会の問題は所謂社会問題や個人問題としてではなく、彼の一身上の[#「一身上の」に傍点]問題となる。一身上の問題と云っても決して所謂私事[#「私事」に傍点]などではない。私事とは社会との関係を無視してもよい処のもののことだ。処が一身上の問題は却って正に社会関係の個人への集堆の強調であり拡大であった。社会の科学的理論の体系も亦、こ
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