存在していて、その存在に沿って随伴[#「沿って随伴」に傍点]して起こる或る関係が、意識による反映・模写ということであり、つまりそういう作用としての意識なのである。この関係は存在に随伴することなしには決して起きない。存在が存在しなくなれば起きなくなる関係だ。それでこの存在とこの関係との間には又何等かの関係[#「関係」に傍点]がある。之は一応不離な関係だが併し直接には因果関係ではない。反映・模写という言葉は、こうした非因果的な直接関係を云い表わす範疇なのである。だから実は意識があって存在を反映するのではない(意識は元来なかった)、却って反映という存在の随伴現象が意識ということだ。夫が「自分」ということなのだ。
自分乃至意識は、存在に随伴する関係であるが(その随伴の仕方関係が意識とも反映とも模写とも写すとも見るともいうことだ)、処が一般に存在に随伴する関係は、意味[#「意味」に傍点]と呼ばれる。意味は厳密に云うと存在の因果所産でも何でもなくて、存在が有つ[#「有つ」に傍点]処の一つの関係のことだ。存在に意味があり、存在が意味する[#「意味する」に傍点]のである(意識が意味するのではなくて存在が意味するのだ。インテンションとは実は之だ)。意味がある[#「ある」に傍点]とは、意味が存在するということではなく、又意識が意味を産み[#「産み」に傍点]与えるというのでもなくて、存在が意味を有つ[#「有つ」に傍点]ということだ。で意味はない[#「ない」に傍点]のだ。――そうすると、例の自分乃至意識は意味[#「意味」に傍点]にぞくするものだということになるだろう。
さて私はここに二つの秩序界を並べねばならぬ事情に立ち至った。一つは存在・物・物質の秩序界だ、もう一つは自分・意識・意味の秩序界だ。前者は存在し後者は存在しない。そして後者は前者の存在に随伴するのである。――「個人」と「自分」とを隔てたあのギャップは、実はこの二つの秩序界の間に横たわるギャップであった。而もこのギャップならば、随伴という橋渡しは一応ついた。
併しそうすると、つまり自分というものは個人に随伴するというだけでケリがつきそうだ。それなら社会科学は個人の問題を取り扱うことによって、随伴的に[#「随伴的に」に傍点]自分というものの問題を取り扱えばよいわけだ。処がそう簡単には行かない。自分・意識・意味はそれ自身一つの
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