解答は極度に厄介なのである。デカルトの、「自分が考える、故に自分が存在する」というのが、何等の推論でないことは云うまでもないので、この「故に」は単に、彼が自分というものの存在を事実上すでに仮定していることの告白を示す気合か掛声にしか過ぎない。――とに角、少なくとも自分というものは、普通の意味での存在性を持ってはいない、普通の意味では存在しない[#「存在しない」に傍点]、従って普通の意味では無[#「無」に傍点]だ(無である[#「ある」に傍点]とは云えない、ただ無だ)。
 処で之と同じような事情におかれたもう一つのものがある。夫は意識[#「意識」に傍点]だ。意識も丁度自分に対立する自分という個人[#「自分という個人」に傍点]のように、精神や心と考えられればその存在性に問題はないが、それが本当に意識と考えられると、夫が存在するかどうかが問題だ。意識(Bewusstsein)はDas bewusste Seinという或る存在(Sein)であるように書かれるが、之は単にドイツ語で哲学の術語を造る時の便宜から起きたことに過ぎない。そして之は恐らく「意識ある存在」という意味にはならずに、「意識された存在」、即ち存在が意識された、という意味になるのだろう。いずれにしても、存在[#「存在」に傍点]と意識[#「意識」に傍点]とは別であり、従って意識は存在ではない、存在しない、無だ。――自分は自分で自分を考えることが出来る。自分が自分で自分を考えなければ、即ち自覚しなければ、即ち又自意識を有たなければ、自分というものは考えられない、処がこの考えるとか考えられるとかいうことが、他ならぬ意識するということだ。で之を以て、自分というものと意識というものとが、同じ性質のものだということが判る。その意味で、自分はあるかないか知らないが、とに角夫は意識だ、と云うことが出来る。
 物質は云うまでもなく普通の意味で、存在[#「存在」に傍点]している。之を写し反映するものが意識だ。簡単に機械的に考えると、物質を反映し模写するものは頭細胞其の他の物質だ、と云われるかも知れない。だが外界の物質と頭物質との関係は物質相互間の物的因果交互作用関係にすぎないのであって、それ自身は反映でも模写でもない。反映・模写とは物質と意識との間にしか起きない関係を云い表わす言葉だ。で外界の物質と頭細胞物質との物質相互の物的関係が
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