に解明しようとすると、忽ち札つきの観念論に陥らざるを得ない。事実之までの思い切った観念論(バークリやフィヒテの主観的観念論)は単に観念を馬鹿々々しく尊重したことがその動機なのではなくて、この「自分」なるものを観念のことだと思い誤ったり、又之を観念的に掴むことが相応わしいことだと思い込んだりしたことに由来する。「自分」は社会科学(つまり史的唯物論――唯物論)でどう取り扱われるか。
M・シュティルナーは何と云っても参照を免れまい。シュティルナーに云わせれば、「神と人類とは何物にも頓着しない、自分以外の何物にも。だから自分も同様に、自分のことを自分の上に限ろう。神と同じく他の凡てのものにとっては無である自分、自分の凡てである自分、唯一無二である自分の上に」(『唯一者とその所有』――岩波文庫訳)、である。「自分にとっては自分以上のものは何もない」のだ。自分だけが自分の唯一無二の関心事だ。――だがどうしてそんな馬鹿げたことが主張出来るのか。併しシュティルナーが、自分と云うものを人間[#「人間」に傍点]や人類[#「人類」に傍点]というものから区別しているという点を今忘れてはならない。シュティルナーが云っているのは、個人が凡てだというのではない、個人ではない[#「ない」に傍点]処の「自分」が凡てだというのだ。そう云われて見れば、この唯我独尊主義も、決して簡単な妄想ではなくて相当複雑な虚妄であることに、戒心しなければならないだろう。
処がシュティルナーの「自分」は「創造者的な虚無」だというのである。と云う意味は、自分が一切のものの創造者であり、世界はつまり自分の所産だというのである。そして自分は世界を創造するに際しても何ものにも負うのでなくて自分自身にしか負う処がない。だから「無からの創造」だというのである。人間の生涯とその歴史的発達は、この自分の創造物だというのだ。――だがこうなるとこの自分と人間(個人)とはどうして別なのだろうか。なる程人間(個人又はその集合としての人類)ならば、それが歴史を創ったということも何とか辛うじて説得出来るかも知れない。併し誰が一体、自分が古代から現代までの歴史を造ったと実感するものが、狂人でない限りあるだろうか。――自分なるものが個人や人間と別な範疇だという論理はよい、だがそうだからと云って、「自分」なるものの形而上学的体系は困る。之は独りシュテ
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