ィルナーに限らず、彼の先輩たるフィヒテに就いても同様に困る点だ。
『ドイツ・イデオロギイ』(唯物論研究会訳)の大半をこの「聖マックス」・シュティルナーの批判に割いたマルクスは、処で彼をこう批評した。「若しも聖マックスが、種々な『事』及びこれ等の事の『所有主』、たとえば神・人類・真理をばもう少し詳しく観察していたならば、これ等の人格の主我主義的な行状に立脚せる主我主義も、これらの人格自身と全く同様に、仮構物であらざるを得ないという、反対の結論に到達する筈だったのだ」と(多少訳を変更)。――つまり「自分」の体系としての形而上学に立脚しようとするが故に、却って「自分」というものが個人という人格物に帰着して了うわけだ。
 シュティルナーの根本的なナンセンスは、彼が「自分」というものを正面へ持ち出したことではなくて、却ってこの自分を安易にも、結局に於ては個人人格というようなものだと想定し、そしてこの個人人格から歴史と社会とを体系づけようとした処の、観念論的な大風呂敷にあったのだ。彼の人間に関する理論が、機械的で非歴史的で意識主義的であるのは、全くここから来る。
 自分というものを個人(人間)から区別しながら、なお結局に於て自分を個人と考えねばならなくした根本的要求は、自分を何か世界の説明原理[#「世界の説明原理」に傍点]としようとする企ての内に存する。個人を世界の説明原理としようとするのが典型的な観念論であるが、之に倣って「自分」なるものを世界の「創造者」という説明原理にしようとしたのが、シュティルナーによって典型的に云い表わされたエゴイズム(理論的又道徳的)なのだ。――だが「自分」とは実は、そういう世界の説明原理(創造者・元素・其の他)である或る[#「或る」に傍点]物ではなくて、単に世界を見るものであり之を写す(模写する)ものなのだ。「自分」は個人とは異って交換することの出来る物[#「物」に傍点]ではない。自分とは自分一身[#「自分一身」に傍点]だ。之は鏡面であって物ではない。
 社会を特殊化せば個人になる。ここまでは明らかに社会科学の領域だ。併しこの個人を如何に特殊化しても「自分」にはならぬ。一体もはや特殊化し得ない分割不可能であるということが個人乃至個体(In−Dividuum)の意味だったのだから、これは寧ろ当然だと云わねばならぬ。もし同じ[#「同じ」に傍点]特殊化の
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