較べれば個人(或る意味では主観乃至主体)は、確かに論理的に特殊者[#「特殊者」に傍点]だ。個物は特殊者だ。処がこの個人なるものも実は、社会の普遍性とは異った併し一種の普遍性・一般性を持っていることを見落してはならぬ。「これ」とか「この」とか云っても、「あれ」も吾々がそこを注意すれば「これ」であり、「あの」も吾々がそこへ行けば「この」に他ならぬ。つまり「これ」ということ[#「こと」に傍点]と「これ」と云われるもの[#「もの」に傍点]との間には、一向必然的な結合はないのだ。吾々はバットを「これ」と指さしてもいいし、チェリーを「これ」と呼んでもいいわけだ。――尤も、もしもバットに霊あらば(あまり唯物論的な仮定ではないが)、彼は自分をしか「これ」と呼ぶことは出来ず、チェリーとチェリー氏はいつも「あれ」とか「かれ」とか呼ばれるに違いないが。でこの特殊性をもった個体は一般性[#「一般性」に傍点]を有っているものだ。
 だがこの一般的な個人(或る意味では主観や主体もそうだが)は、まだ決して「自分」(「私」「我」「自我」等々)ではない。と云うのは、ナポレオンという個人が個人的であり個性的であることは、カエサルという個人が個人的であり個性的であることと、共通なことである。無論二人の個性は別だが、歴史家は二人が夫々の異った個性の、有ち方までを異にしているとは考えない。そういう不公平な歴史家は少なくとも科学的な歴史家ではなくて、ナポレオン党員か何かだろう。処がナポレオン自身[#「自身」に傍点]は、自分がナポレオンであるという関係と、或る男がカエサルだという関係とを、同一共通なものとは考えない。もしそうでないと反対する読者がいるなら、その読者が偶々ナポレオンでないからに過ぎない。何人も「自分」の自分を他人の自分と取り換えることは出来ない。ここに古来人間が一日も忘れることのなかった「自分」というものの意味があるのである。この自分[#「自分」に傍点]はもはや決して個人[#「個人」に傍点]ではない。個人はなお一般的だ、従って「自分」こそ最後の特殊的[#「特殊的」に傍点]なものだ、ということとなる。――処でモラルはこの「自分」というものと深い関係があるだろう。

 問題はそこでまず、この自分なるものが社会科学でどう取り扱われ得るかである。自分というこのごく日常的な常識にぞくする観念を、下手に哲学的
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