ものではないという、云われて見れば初めから当然至極なこの関係を、ハッキリ組織的に解明したことにあった。往々世間では、史的唯物論が客観的な社会機構だけしか問題にし得ないもので、個人にぞくする諸問題は之を忘れるか避けるかするのだ、という風に誤解しているが、この誤解は少なくとも史的唯物論による道徳理論を見るならば、氷解することだろうと思う。元来社会科学は個人を問題にしないどころではない。実は例えば、如何なる個人は如何なる社会条件の所産であるかを問題にすることこそ、社会科学の具体的な現実的な課題なのだ。なる程社会科学が与える諸々の公式は、一般的な通用性(尤も之は歴史的な適用条件を持っているのだが)を有っていればこそ公式である。併し又特殊の夫々の事情に向かって特殊的に適用されないような公式は、元来何等一般的な公式ではないのだ。公式はいつも特殊化[#「特殊化」に傍点]され得るものだし又特殊化されねばならぬ処のものだ。従って社会機構の一般的諸関係を云い表わす社会科学的公式は、当然個々夫々の特殊事情に相当する処の各個人[#「個人」に傍点]の場合々々について、特殊化され得るし又特殊化されねばならぬ。社会科学が個人を問題に出来ないという説は、何かの誤解だと云わねばなるまい。
だから道徳が如何に個人のものであり個人を介してでなければ成り立たないにした処で、それを理由にして、道徳が社会科学的に分析出来ないものだなどと考えたり主張したりすることは、許されないわけで、そういう誹謗は偶々、個人主義的なブルジョア倫理学自身の自己弁解を物語る以外のものではないのである。道徳の個人的特色(階級道徳も亦この道徳の個人的特色の必然的な規定だ――なぜなら個人そのものが社会における個人でしかなかったから)を最もよく説明したものは、他ならぬ史的唯物論だったのだ。
道徳は社会科学的観念によって、いつも個人化[#「個人化」に傍点]され得る。その意味でなら、客観的な道徳も常に主観化[#「主観化」に傍点]され得るし、客体的な道徳も必ず主体化され得る。――だが社会に対するこの個人、又或る意味で(後を見よ)客観乃至客体に対するこの主観乃至主体、とは何か。社会や客観乃至客体は、論理的には一つの普遍者[#「普遍者」に傍点]である。と云うのは、個人(或る意味では主観や主体も)の多数の複数を通じて共通に横たわる或るものだ。之に
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