ラルとは何か身辺のアトモスフェヤとか、特定内容から切り離された抽象された生活感情とかいうものであって、生産機構に発して産業や経済生活や政治活動やを踏み分けて通った処の、社会そのものの脱汗の粒々たる結晶としての生活意識とは、おのずから別なのである。つまりモラルは多くの文学者にとっては、個人身辺のものであって決して社会的なものなどではない。
 吾々は、処で道徳に関する文学的観念たるモラルのこの観念から、こうした文学者的な皮相さを除り去らねばならぬ。もしそうしなければ、モラルは主観的道徳感情とか個人道徳とかいうものになって了って、例の倫理学が眼の前に置いて考えていたような道徳の、而もごく不体裁な模造品にすぎぬものとならざるを得まい。夫ならば社会科学によって、すでに解決と解消とを完了された処のものに過ぎない。今更モラルでもないわけである。

 で吾々にとってまず第一に必要なのは、モラルという文学的観念を、どうやったならば科学的[#「科学的」に傍点]な道徳(モラル)観念にまで、洗練出来るかに答えることだ。そのために社会科学的道徳観念とこの文学道徳観念との、相違点をもう少し考えて見なければならぬ。
 一般に道徳が社会意識と不離な関係にあるらしいことを、私はこの本の初めの方で述べた。道徳が社会の汗か脂のようなものだとも云った。従って道徳は常に社会的[#「社会的」に傍点]なのである。併し又本当に個人[#「個人」に傍点]が考えられていない処に道徳というものもあり得る筈はない。社会意識は個人が社会に対して持つ意識か、それでなければ社会という主体が持つと譬えられた意識のことだが、社会という主体が統一的な意識を有てるかのように仮定するマクドゥーガル的なGroup mindの観念も、社会に於ける個人が有つ個人的な意識の社会的総和という風に理解しない限り、心理学者のフィクションに過ぎぬものとなるだろう。社会意識たる道徳意識も、だからこうした個人意識としての道徳意識の総和であるか、それとも個人が社会に対して有つ道徳の自意識に他ならぬ。――いずれにしても道徳は、社会[#「社会」に傍点]と個人[#「個人」に傍点]との関係に於てしか成り立たないことを見るべきだ。
 社会科学的道徳観念の科学的高さをなす所以の一つは、道徳が社会と個人との関係に於て初めて成り立つものであって、単に個人自身の内で成り立ち得る
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