は全くここにある。真に幸福について考えて見たことのない人間は、決して道徳を知った者ではないかも知れぬ。――だが理論的に忘れてならぬことは、この幸福なるものが、実はモラルの形式的[#「形式的」に傍点]な規定に過ぎなかったという点、或いはこの形式的規定がそのまま一転してモラルの一般的[#「一般的」に傍点]従って又抽象的[#「抽象的」に傍点]な云わば形式的内容[#「内容」に傍点]になったものに過ぎぬという点、なのだ。なる程、一切のものは幸福に帰趨するだろう、エピキュリアニズムは因よりストイシズムもアスケティシズムも、夫々一種の幸福感・満足に帰趨するだろう。併し逆に、幸福というもの自身からは単に幸福をしか導き出すことは出来ぬ。幸福からはモラルの本当の内容[#「本当の内容」に傍点]を導き出すわけには行かないのだ。もし幸福のモラルからコンミュニズムを導き出した文学者がいたとすれば、彼には一つの転向[#「転向」に傍点]が必要であったに相違ない。と云うのは、幸福のモラルからコンミュニズムを惹き出したと云うのは、実は方向を反対にしてコンミュニズムから幸福のモラルを惹き出したことに他ならない。
 幸福のモラルは、モラル自身の形式そのものを云い現わす固有な特別な一般的抽象的内容に他ならないが、併しそれであるが故に、このモラルは形式的なものであり、このモラルの観念は形式主義的な条件を免れ得ない。幸福の説は恰もそういう形式主義的なモラルの観念に基くものだ――形式主義とは形式が内容の「鍵」で「窮極の基礎」だと考えることだが、恰もヒルティなどは「幸福は実に我々のあらゆる思想の鍵である」とも云い、「幸福は、あらゆる学問・努力・あらゆる国家的及び教会的施設の窮極の基礎である」とも云っている(前掲書)。之は全くキリスト教徒の声だ。なる程社会変革の運動は大衆の幸福を目標としているには違いなかろう。だが大衆の幸福をそれ自身如何に捏ね回しても、神の国[#「神の国」に傍点]かユートピア[#「ユートピア」に傍点]以上のものは、決して出て来ないのだ。
 で幸福とはこうした形式主義的なモラルの内容だが、恐らくこの点が、実際に世間に行なわれている所謂「モラル」の特色を最もよく云い表わしているだろう。モラルは文学者の用語だが、文学者は之によって、極めて形式的なモラルを影像として受け取っているように思われる。と云うのはモ
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