―文化的自由は人道的自由[#「人道的自由」に傍点]とも呼ばれている)その近代的な名称の一つだし、ヒューマニティー[#「ヒューマニティー」に傍点](人道ではなくて寧ろ人間性)はその近世的な名称である、等々。――夫は併しもっと適切にはモラル[#「モラル」に傍点]又は倫理[#「倫理」に傍点]と呼ばれている処のものだ。モラルというフランス語は(之は後に見るようにフランス文化を離れては歴史的に理解出来ないものなのだから)、大体物理という言葉に対立する。つまり之はフューシス(物理・自然)に対立する処のエトス(倫理)であり人事であり精神なのである。
 処でこのモラルという言葉が今日では全く文学的な用語として通用していることを忘れてはならぬ。人々は文学の内に(文学を必ずしも狭く文芸に限らず広く芸術の思想的イデーと理解してよいが)、常にモラルを求めている。処がこのモラルが所謂道徳――例の領域道徳として善悪とか道徳律とか修身徳目とかに帰する処の通俗常識的道徳――でないことは、判り切ったことだろう。文学の内にそういう通俗常識的道徳律や勧善懲悪や教訓を求めることは、専ら通俗常識か道学者かの仕事であって、常識ある文学読者のなすべきことではない、ということに世間では事実なっているだろう。
 さてこの文学的良識によると、道徳は、吾々が之までの各章で見なかった処の或る別な相貌を以って現われて来るわけだ。夫は現にモラルという名の下に、文学の内に最も著しく現われているのだ。或る意味に於て、文学が追求するものこそこのモラルだと云うことが出来る。――でこのモラル乃至倫理を、私は仮に文学的[#「文学的」に傍点]な道徳観念と呼ぶことにしよう。

 繰り返して云うが、道徳に関するこの文学的観念は、少なくとも夫が普通世間に存在している形では、全く一つの――但し相当優れた――常識にぞくする。と云うのは、この文学的観念としての道徳に就いては、まだそれ程出来上った既成乃至自明な理論的科学的な概念が与えられているとはいうことが出来ないからである。事実文学者連が好んで使っているモラルという言葉は、概念としては至極曖昧であることを免れないだろう。この道徳観念が概念として曖昧であることは、必ずしも道徳に就いてのこの文学的観念が貧弱であったり成っていなかったりすることを意味しないのであって、事物の文学的検討や叙述には、夫でも結構
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