事は足りる場合が多いだろう。だが吾々は、この観念を理論的に明らかにし、之を道徳理論に於ける一つの根本概念として取り出すことを必要とする。
 文学(広く芸術に於ける精神)がモラル(この文学的道徳の観念)を追求するものだという事実は、文学が常に常識[#「常識」に傍点]に対する反逆[#「反逆」に傍点]を企てるものだという処に、一等よく見て取れるだろう。文学は大抵の場合常識に対立せしめられる。処でこの反文学的な常識とは、例の低俗な通俗常識のことに他ならず、それが又通俗常識的観念による所謂道徳のことに他ならぬ。かくて文学的道徳・モラルは結局通俗常識的道徳に対立しているわけなのだ。ではどういう風に之に対立するのかと云えば、要するに通俗道徳に対してその批判者[#「批判者」に傍点]として立ち現われるのが、モラルだということに他ならぬ。夫が通俗道徳を批判するものである限り、夫も亦一つの道徳でなくてはならぬ、モラルでなくてはならぬ。だが夫と同時に、夫はもはや通俗道徳という意味に於ては、道徳ではない。でモラルという観念自身が、所謂道徳なるものを解体する処のものを意味せねばならぬ。だが単に道徳を道徳でないものによって道徳でないものにまで解体して了うのでは、夫が科学的手続きによるのでない限り、道徳の単なる否定というものにしか過ぎない。それでは例の通俗常識による道徳という通俗観念さえが、事実上納得され得るようには克服出来まい。道徳を納得的に否定し得るものは、一種の道徳[#「一種の道徳」に傍点]の他にはあり得ない。モラルは少なくとも現在、事実上そういう一種の道徳の観念だ。
 社会科学的な道徳観念も亦、道徳を解体し道徳を道徳の否定にまで導く過程に生じる処の、道徳観念であった。だが夫は道徳を本当に科学的に終焉せしめて了うものだ。之に反して道徳の文学的観念は、道徳を道徳として、モラルとして、云わば止揚し且高揚する処の観念に他ならない。ただ文学自身では、この観念が極めて曖昧で無限定なのだ。そこで今吾々は、之を理論的に表現しなければならぬというのである。
 だが、或いはだから、文学的道徳の観念を吾々は無条件に信用してかかってはならないのである。それは誤謬へ導くかも知れない多くの諸規定を無定量に含んでいる、それがこの観念の理論的に曖昧である所以だ。吾々がこの観念[#「観念」に傍点]について、理論的な概念[#
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