てある処にばかりあるのではない、ということになる。丁度自称の良心は却って決して良心的ではないだろうし、俺は偉いと称する人間は必ず馬鹿であるというようなものだ。処が馬鹿な人間ほど、俺は偉いと自ら称する人間を本当に偉いと思い込むものだ。
で、之こそ道徳だとみずから名乗り出るものは、実は道徳としてあまり尊重すべきものではなく、却って所謂道徳という領域には普通属していないものに、道徳の実質があるとも考えられる。之は私が道徳という言葉をそう勝手に拡大して使おうと欲しているわけではないので、事実、少し気の利いた常識のある常識は、道徳を今云ったようにしか見ていないのだ。例えばこの常識は勝れた歴史叙述の中に道徳[#「道徳」に傍点]を見る(その極端なものは「春秋」や「通鑑」の類だろう)。又例えば衣装さえが道徳を象徴する(カーライルの『サーター・レザータス』を見よ。――或る批評家はこの衣裳哲学の著者の極めて不道徳にも古びた帽子を見て、彼が衣裳に就いて哲学を語る資格を有たないことを主張した)。併し何より知られているのは、芸術作品に於ける、特に直接には文芸作品に於ける、道徳というものだろう。それが仮に芸術のための芸術であり、又純粋文学であるにしても、それだけにそれが表わすモラル[#「モラル」に傍点]は、却って純粋だとも云えるのだ。所謂道徳なるものを目指していなければいない程、そのモラルは純粋になりリアリティーを有ったものとなる。道徳の否定そのものが、又優れた道徳だ(多少文学的とも云うべき哲学者、ニーチェやシュティルナーなどを見よ)。そしてこういう文学は、よい常識・良識ならば、実は苦もなく夫を理解出来る処のものだ。そういう大衆性[#「大衆性」に傍点]を有たない純粋文学は、そのモラルが偉大でないからこそ、ケチ臭ければこそ、非大衆的なのだ。
だから常識のある常識は、世間の道徳や人格商売屋や倫理学者達などが道徳を感じない処にこそ、却って自由な生きた濶達な道徳を発見するのだというのが事実である。殆んどあるゆる文化領域・社会領域に即して、道徳が見出される。だからこの道徳は、もはや単なる一領域の主人を意味するのではないことが判るのだ。
こうした広範な含蓄ある道徳の観念は、これまで色々の名称で呼ばれて来ている。文化的な自由[#「自由」に傍点]が(自由は経済的・政治的・文化的・等々に区別されるだろう―
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