或いは生の哲学のこうした横溢に対して、ただ一つの特徴を告げておくことにする、曰く、凡庸な甘いインテリ青年に相応わしい哲学が之である、と。
所謂生の哲学と並んで、日本のブルジョア・インテリゲンチャを魅了しているものは西田哲学である。この哲学は思想としてはまだ殆んど利用されていないにも拘らず、世間の之に対する好尚には著しいものがある。西田哲学の流行(?)は、一面に於てはその独創性と思われるものと夫に連絡があるように思われている東洋趣味とによるが、他方に於ては常識への文芸的な訴えにも基いている。処が西田哲学の本質は決してそういう処に横たわるのではない。少なくとも後期の所謂西田哲学の特色はその独特の論理[#「論理」に傍点]乃至哲学方法[#「哲学方法」に傍点]にあるのである。無の論理[#「無の論理」に傍点]というのが夫であるが、この論理は一二の例外を除けば決して広く世間で使われているものではない。世間では西田哲学を殆んど全く文芸的なファン意識で受け取っている。尤も例の生の哲学や人間学も、大体そうだったのだが。――処で無の論理は今日のブルジョア観念論の極致とさえ云うことが出来る。というのは、無の論理は事物を実際的に実地に処理するためではなく、反対に事物のもつ意味だけを専ら解釈するために、最も発達した考え方だったのである。
西田哲学に見受けられる東洋趣味(無・神秘主義・禅味・其の他)のおかげで、西田哲学を東洋の哲学だと考える人がいるが、之は表面だけを見て核心を知らない人の見解だ。況して之を封建的イデオロギーの哲学だと考えることは単なる当て推量に過ぎない。本当に東洋のものらしく見え、又封建的イデオロギーの哲学らしく見えるものは、今日では所謂ファッショ哲学[#「ファッショ哲学」に傍点]の数々でなければならないのである。今日の日本の所謂ファッショ哲学は、最も露骨に非科学的なものだが、その第一の特徴は精神主義[#「精神主義」に傍点]にある。之は外来の物質文明(?)に対して精神文明[#「精神文明」に傍点]を対抗させる積りであるが、物質が何だかも精神が何だかも判らないのだから、この点哲学としては歯牙にかけるに値いしない。第二の特徴はその農本主義[#「農本主義」に傍点]にあるのだが、之は日本の神話と日本の産業上の特殊事情とを混同した上に、土や米の礼讃に帰着するのだから、真面目に相手になることは出来ない。その第三の特色は日本主義[#「日本主義」に傍点]又はアジア主義[#「アジア主義」に傍点]であるが、之は理論ではなくて単に一部の人物達の政治上の又は外交上の意志発表に理屈をつけたものにすぎない。――こういう他愛のない哲学(?)にも併し、哲学の専門家と見做されている多数の学者達に魅惑を感じさせるものがあるという事実は、ブルジョアジーのイデオロギーであるこの観念論なるものの方が、どんなに初めから非科学的であったかということを、偶々告げているに他ならない。
さて最後に、唯物論哲学は今日の日本に於ては決して強力だということが出来ない。だがソヴェート・ロシアを除いては、最も唯物論の活きて動いている国の一つが現在の日本だろう。唯物論は一方に於てはその統一的な観点から一切の問題の合理的な解決へと進出しようとしているし、他方に於ては観念論の時宜[#「時宜」は底本では「時宣」と誤記]に適した合理的な批判と必要とに応じてはその批判的摂取をさえ企てている。ブルジョア・アカデミーは全く唯物論を閉め出しているし、唯物論者と名づけられるに値いする哲学者や諸科学者の数は決して多くはない。それが何と云っても現在の唯物論の弱みでなくてはならぬ。にも拘らず多少知能の進んだ社会分子の間には唯物論に期待を持っているものが少なくはないのだ。――だが何よりも尊重すべきものは現代唯物論(弁証法的唯物論)の理論そのものの有力さでなければならぬのである。唯物論の説明は簡単には尽せないが、少なくとも之はただの世界観ではなくて、同時に哲学の唯一の科学的方法[#「唯一の科学的方法」に傍点]を意味するものだということは、特に注目に値いする。そこを忘れなければ唯物論を物質偏重主義だとか精神を否定する主義だとか考えたがる滑稽な無知から、救われることが出来るだろう。哲学史の一頁も読んだことのあるものには、こういう無知は到底我慢なり兼ねるものだが、特に日本の政治家や卑俗な言論家達は哲学史に無知なことこの上ないのである。
三[#「三」はゴシック体]
処で、今まで説明してきた処によって、今日の観念論と唯物論との、一体どっちが思想の科学又は世界観の科学として科学的で学問的かということは、大体見当がついたことと思う。之を厳密に論証することはもっと手数の要ることだが、両方の特色を挙げて見ただけでも輪郭は判るだろう。そうすると、前に云っておいたことによって、宗教乃至信仰を許容することの出来ない唯物論が科学的に正しい以上、宗教乃至信仰の立場は、その本質に於て否定されなければならなくなる。今日の日本の宗教はどうなっているか。
云うまでもなく、現在の日本には、神道・仏教・キリスト教の三種類が有力である。まず神道であるが、所謂「神道」(宗派神道)の他に「神社」なるものの厳存していることは、わが国民として特に注意を怠ってはならない点である。なぜかと云うに、全国約二十万の神社の祭りは、行政上「宗教」には入れられていないので、他の神道及び各宗派が文部省の管下に属するに反して、之だけは、普通の行政並みに内務省の管下に属しているからである。処が、それにも拘らず、その実質は宗教的なるものだと見られねばならぬ点に充ちているのであって、現にこの頃は敬神の念を作興しようという教育方針が至る処で受け容れられているが、之は主にこの神社崇拝を指しているに他ならない。各派の宗教神道が、有名なものだけを挙げても天理教・金光教・大社教・扶桑教・黒住教など、国家的に神道と認められながらも、事実の上からはあまり今日の一般社会の普遍的な信用を博しているとは考えられないに対して、神社神道は日本の国体乃至日本の政治(祭りごと)と一致するものとして、今日の日本の社会では絶対的な権威を付与されている。この最も公的な行き渡った日本の国家的民族宗教に近いものが、宗教に数えられていないのは、他の色々の必要から来ることは別にして、少なくとも政治と宗教とを分離しようとする明治初年の宗教政策(尤もごく最初の政策はそうではなかったが)の所産なのである。併し之が宗教として公認されていないということが、宗教でないという証拠にはならない。
仏教は宗派神道に較べて、農民其の他の大衆の一部に、一定の地方的地域に従って、深く根を下している。特に真宗・曹洞宗・浄土宗・日蓮宗などがその主なるもので、仏教徒の総数約四千六百余万と称されている。尤もこのうち宗教的信仰を懐いていると見做してよい所謂信徒を別にして、大部分の者は単にその家族関係から云って一定宗派の寺院の檀徒だというに止まっているから、宗派神道の可なりに熱心な信徒と、直接その数を比較することが出来ない(各派の宗派神道の信徒総数は約千六百九十万である)。一般に僧侶は従来、漢学者・国学者・に並んで日本に於ける知能分子の代表者であったから、仏教徒の内には相当多数の一種の知能分子が含まれていることを注意すべきであって、相当の実質を伴った大学や学校の数も極めて多い。この点神道の信者達と大いに違う点で、後に云う今日の宗教復興[#「宗教復興」に傍点]運動の主力がこの知能僧侶の間から出て来る理由が充分あったのである。
キリスト教の歴史は日本では云うまでもなく浅いが、二十有個の宗派に属する信徒総数は約二十万人足らずを算えている。キリスト教はヨーロッパ・アメリカ・資本主義と資本主義的文化とを持って来たものであったから、この信徒の内には資本主義的文化を担う知能分子は極めて多い。
さて処でこの三つの宗教は日本に於て益々盛んになりつつあるか、それとも次第に衰えつつあるかと云うと、部分的に云えば別であるが、結局に於ては段々下り坂だと見ねばならぬ。現に神道でも仏教でもその信徒は段々減少しつつあるのであって、キリスト教信徒だけは殖えて行くように見えるが、併し総数が少ないから宗教全般からいうとあまり有利な好材料とはならず、その増し方自身も今日ではずっと下火になって了っている。――大体神道や仏教は日本が明治以来輸入した資本主義とは直接に結びつけない内容の宗教なのだから、日本の資本主義的文化の発達とは割合関係なく遺されて行くのであって、このままの形ではブルジョアジーの観念論自身からさえ見離されざるを得ないだろう。
併しこうした所謂既成宗教の他に、わが国では特有な色々の民間的な宗教現象がある。各種の所謂邪教(まだ社会的に承認を得ていない宗教営業)から始めて、色々の民間治療と結びついた信心、陰陽道(方角を気にする)、降神術、其の他がある。之はごく卑俗な形に於ける宗教現象だが、他方仏教的哲学やキリスト教神学や又形而上学的哲学や又文芸をさえ通じて、宗教的信仰が科学的(?)な衣裳を纏って潜行していることは忘れてはならぬ。ブルジョア観念論は、最初に云ったように、結局は宗教と同じ軌道に乗って了うものだったのだ。
処で、最近の日本では、一方に於てマルクス主義=唯物論が下火になったという常識と、他方大日本帝国の各種の海外発展という俗間の期待とによって、ファシズム・イデオロギーの一部分として、又夫と平行して、今まで云った各種の宗派の宗教及び各種の宗教現象が、故意に高揚され強調されるようになって来た。之は満州問題を直接のキッカケとするものであったのだが、こうした宗教復興運動は、資本主義社会の有望な発展に勇気づけられたものや何かではなくて、正に日本が之に愴惶として善処(?)しつつある処の資本制の断層化の所産であり、且つ又夫が、その断層化を観念的に蔽いかくすための社会政策の意義を持っていることを、今日知らない人はない。
所謂宗教復興現象の現われ方は、本来色々あり得るわけだが、今日のは、主に仏教徒僧侶達が、ジャーナリズムの上で、社会の安価な知能分子を動かすという形で現われている。そのためには、旧来の[#「旧来の」に傍点]仏教を打倒して、現代に相応わしい活きた真理ある仏教を弘布せねばならぬ、というスローガンを掲げるのであって、之によって一見宗教批判[#「宗教批判」に傍点]の役目も果すらしいと共に、そうした宗教批判に堪え得る「本当の」宗教を再建しようとする本来の意図をも満足させることが出来るだろう。だから一頃宗教批判のごく端まで、即ち唯物論のごく端まで歩みよっていた幾人かの名を知られた宗教批判者達は、この時とばかり宗教復興運動に飛び込んで了ったのである。――ジャーナリズムの上に現われ精神薄弱なインテリゲンチャを動かす所謂宗教復興は、実は宗教復興でも何でもなく、まして宗教的真理の建設でも何でもないのだが、併しこの現象は現下の日本にとって避けることの出来ないもっと根本的な宗教的痙攣の一つの余波、と見做させるだけの意義はあるのである。この宗教的痙攣は云うまでもなく唯物論の宗教批判に逆襲するためにやる宗教の身振りに他ならない。
唯物論の側からする宗教批判の組織的活動(無神論[#「無神論」に傍点]又は反宗教闘争[#「反宗教闘争」に傍点])は、今日の反動時代に於て決して盛大だと云うことは出来ない。見方によってはそうした組織的な活動は行なわれていないとも云えるかも知れない。処が実は今日、唯物論による宗教批判の活動は断片的であるにせよ、相当日常常識化されて、次第に大衆化しつつあるということは多分否定出来ない。宗教の欺瞞はいつまでも大衆の眼を蔽うことは出来ないからだ。そしてその破綻は例のインチキ宗教現象ともなって現われているのである。
底本:「戸坂潤全集 第四巻」勁草書房
1966(昭和41)年7月20日第1刷発行
1975(昭和50)年9月20日第7刷発行
※誤植の修正には、
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